本土寺の門流に属する寺々では、檀徒の死亡に際しては「本山授戒」の制によって戒名を付与するのが通例で、正法寺檀徒の小西の人々も本土寺から授戒されていた。本土寺には天正十一年(一五八三)の書写と伝えられる『大過去帳』(本稿では『千葉県史料』中世編・本土寺過去帳を基本史料とする)があって、原氏以下の正法寺檀徒の人々は「小西旦那」として数多く記されている。この本土寺過去帳の内容は、その大部分が室町時代の応永年間(一三九四~一四二八)以降、江戸時代初期にわたるものである。とくに、「法名に付して関係寺院・居住地名・俗名、さらに合戦名・戦乱による死亡など、東葛飾地方を中心とする周辺の豪族の動きが把握」され、房総の中世史解明に貴重な史料となるものである(県史料解説)。以下、過去帳中の「小西旦那」を抄出して、その動向について紹介してみよう。
『本戸寺過去帳』抄出
① 小西城主原氏関係
三日 妙上霊位 小西大方 慶長七壬寅五月 池上ニテ
十日 慈父蓮孝 逆修悲母理寿尼 小西御上ノ父母
十日 日源 小西 能登守 永禄十三年庚午八月、千葉寺下ニテ打死
道円 同志賀弥三郎
妙道 同中間
十二日 暁源尼 小西能登守殿母儀
十三日 遊源位 原肥前守
十五日 天崇善尼 小西大方御母儀
十八日 日陽尊位 原能登守法名光信 天文十辛丑四月
廿日 妙寿位 小西能登守殿御内セナ
廿一日 要山 秋元殿 小西大方御父
廿二日 行源成等正覚 小西原肥前守
廿三日 妙蓮尊尼 臼井御谷ノ上 小西殿御老母 天正十六戊子九月
廿四日 妙行尼 小西能登殿御内母 八月
廿四日 院勢比丘尼 小西大方 文明十五癸卯四月
廿八日 原肥前入道行朝 文明十三辛丑三月
② 小西諸氏関係
朔日 妙道入 小西 行木太郎次郎
二日 妙有尼 小西 高橋新左衛門息女 明応五丙辰八月大風家被打
大谷殿 息女二人 同聟壁被打死
三日 妙誠善尼 小西真板神五良母 永正七庚午二月
四日 妙円尼 小西真板二郎右衛門息女 九月
五日 法鏡尼 小西雅楽助内
六日 志賀雅楽助父死 小西ニテ被打 享徳九庚辰十一月
〃 妙金尼 押尾殿母儀 小西 文明八丙申正月
〃 妙浄尼 小西錦服隼人母 延徳五年八月
七日 法高善門 小西高浦小四郎慈父 十一月
九日 暁伝 小西江口但馬守 七月
十三日 善行位 小西兵部少輔 天正六戊寅十一月
十四日 妙日尼 小西旦那加瀬殿母儀 永正十八辛巳九月
十六日 妙金霊 小西 山口小四郎 山口ニテ打死
十八日 黒須 入道瑞心 小西 八月
〃 大栄 小西 高橋大炊助 永正元甲子十二月
廿日 行寿位 小西 香取息女 松子逆修
〃 堅江霊 小西志賀左衛門五郎 十一月打死
廿七日 法高 志賀三郎五郎 小西是明兄 大永五乙酉二月
廿九日 小西 高橋与四郎其外 成等 正覚
[ ]壬子八月、佐倉ニテ打死
③ 近隣諸氏関係
六日 設楽 出雲守行暹 山口 文亀四甲子六月
九日 栗原 加賀守行信 福俵 天正二甲戌六月
十一日 設楽道暹 上総山口
廿四日 常泉入木内二郎左衛門 上総山口ニテ 文明五癸巳三月
『大過去帳』中に記載される小西の人々は一三〇余人にも及んでおり、その中から在俗の小西旦那約四〇名を抄出してみた。これらの人々は①原肥前入道行朝以下の小西城主原氏、②江口但馬守以下の小西諸氏、③設楽・栗原・木内等の近隣諸氏によって構成され、いずれも小西郷付近に分布した在地武士であるものと推定される。
まず、①の小西城主原氏の関係では、文明十三年(一四八一)の肥前入道行朝(胤継)以下、その妻女と推定される院勢比丘尼(文明十五年没)、能登守光信(天文十年没)、能登守日源(永禄十三年戦死)など一四名が確認される。この原氏の歴代は「小西殿」と尊称される正法寺の外護者で、次の項において詳細に復元・検討してみたい。
つぎに、②の小西旦那諸氏の関係では、小西城の宿老とみられる江口但馬守以下、有力武士とみられる加瀬殿・押尾殿・黒須入道瑞心、行末・高橋・真板・志賀・錦服などの諸氏が認められる。これらの人々は小西落城後、土着帰農して「草分百姓」となったとみられ、「小西略賦」には「小西村長百姓六軒之事、埴生・錦織(錦服)・市原・江口・行木・高橋也」と記されている。この②の人々の中には、小西城中で誅殺された志賀雅楽助父(享徳九年)や山口小四郎・高橋与四郎・志賀弥三郎のように出陣して戦死した者も数多い。一方、小西高橋氏の息女のように、明応五年(一四九六)八月二日の台風によって家屋が倒壊して死亡する者もあり、この時に大谷殿と称される家中では二人の娘夫婦計四人が崩れた壁の下敷きとなって死亡している。
さらに、③の近隣諸氏の関係では、山口郷住人の設楽出雲守行暹・同道暹、福俵郷の住人の栗原加賀守行信など、東金地方の在地武士が確認される。また、山口郷内では文明五年(一四七三)、千葉氏の一族とみられる木内二郎左衛門常泉が死亡している。