小西殿と称された原胤継は、上総南西郡の小糸川流域を支配した秋元殿(要山)の息女(院勢尼)を妻とし、肥前守行源(宮内少輔胤隆)をもうけている(『本土寺過去帳』)。胤継子息の肥前守胤隆は、上総伊北庄(夷隅町)の狩野殿蓮孝の女(暁源尼)を妻として、小弓城主として活躍するとともに小西にも居館したようである。この胤隆は、連歌師宗長の紀行文『東路(あずまじ)の津登(つと)』に登場する原宮内少輔胤隆とみられ、当時は小弓の館に生活していたようで、宗長が胤隆に招かれたのは永正六年(一五〇九)十月のことである。宗長の記すところによると、胤隆の館は「南は安房・上総の山立めぐり、西北は海遥々と入りて、鎌倉山横たはり、不二(富士)の白雪半天にさし覆ひてみゆ」の場所にあって、連歌の酒宴を催して「延年の若き衆声よきが廿余人、ふきはやし調べまひ唄ひ、優に面白く、盃の数そひ、百たび心地狂する計にて、暁近くなりぬ。」とも記している。当時、六十余歳を数えた宗長が、心地狂いするほどの歓待は明方近くまで続いたのである(『千葉県の歴史』小笠原長和・川村優)。
小西原氏復元系譜
胤隆の嫡子能登守(光信)は、妻(妙寿尼)との間に嫡子胤継(胤次)をもうけ、天文十年(一五四一)四月十八日に没し「日陽尊位」の法号を授与されている(『本土寺過去帳』)。当時の小西正法寺の住職は、天文元年(一五三二)十二月に没した中光律師日英上人の跡を受けた観行院日詳であり、平賀郷出身の人物であった。
胤次嫡子の能登守胤久は、永禄十三年(一五七〇)八月十日に千葉寺下で戦死、本土寺から「日源居士」を授与されたが、中興の外護者として活躍が認められたようで、檀林開創後、「開山大檀越(だいだんおつ)」として供養碑が建立されている。その妻女は天正十六年(一五八八)九月二十三日に没するが、「妙蓮尊尼」の称号が授与され、「臼井御谷の上、小西殿御老母」と注記されている。最後の「小西殿」は実名は不明であるが、壱岐守胤義以来、胤継・胤隆・(胤次)・(胤久)と継いで、小西原氏の六代の当主であった。その妻女である「小西大方」は、慶長七年(一六〇二)五月三日に池上本門寺で没するが、「妙上霊位」と授与されている。