(1) 原氏の発給文書

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 すでに、『本土寺過去帳』等の分析によって小西正法寺の外護者としての原氏の歴代について紹介してきたが、ここでは原氏の発給文書を中心に上総小西城と生実・臼井両城の関係について検討してみたい。
 原氏の系譜研究としては、すでに松下邦夫氏の「東葛地方の中世の豪族」(『房総地方史の研究』所収)があるが、松下氏は前引の『本土寺過去帳』の分析に基づいて原氏の系統を生実、臼井、佐倉、市川、大野、曽谷、小西、玉造、手賀の諸流に整理されておられる。原氏の系譜で最古のものは、文明年間(一四六九~八六)本土寺九世日意上人の作出と伝えられる『原継図』で、これが『千葉大系図』(鏑木本)などの原氏世系の原形となっている。以下、『原継図』と諸系譜を比較・照合してみると、原氏の世系は下記のように整理される(「戦国末期原氏の系譜」参照)。松下氏が示された系統の分類とはやや異るが、少なくとも小西殿・小弓殿・弥富殿の三種類の系統があったらしく、小西殿の系統も一時期、小弓近辺を所領したこともあったものと思われる。系譜類の多くは江戸時代に編纂されたもので、その記載内容は必ずしも正確ではなく、あくまでも参考の範囲にとどめておくことが大切である。
 本来、両総平氏の一門であった原氏は、千葉介常兼の甥にあたる常途(常餘)が「原四郎」と称したことに始まるとされる。『千葉大系図』によると、原常途の居城は千葉庄生実城とされるが、その本貫地は千田庄原郷(多古町)であったものと推定される。この原氏は、千葉家累代の重臣として、世に木内・鏑木・円城寺の諸氏とともに「千葉の四天王」と称される家柄であった。
本土寺過去帳原継図
本土寺過去帳原継図
戦国期原氏の系譜
戦国期原氏の系譜

表5 戦国期原氏の発給文書
No.西暦日    付差  出  所宛    所種別備    考
11395応永28年 8月晦日平胤高(花押)宮和田郷地頭殿奉書神崎町・神崎神社文書
21431永享 3年12月24日原宮内少輔胤義(花押)本妙寺売券市川市・法華経寺文書
31456享徳 5年 6月14日胤房(花押)真間山根本寺安堵状 〃    〃
4 〃  〃  6月20日 〃  〃真間山弘法寺 〃 〃    〃
51471文明 3年 2月13日景家(花押)願文松戸市・本戸寺文書
61481文明 3年 9月20日原次郎五郎弼次銘文千葉市・寒川神社獅子頭
71545天文14年乙巳原大蔵胤安祖父妙孝尼 〃佐倉市・文珠寺仏像
81551天文20年 2月15日胤清(花押)金光院寄進状千葉市・金光院文書
9 (年欠)  4月28日原式部大夫胤清(花押)弘法寺参書状市川市・法華経寺文書
10 (年欠)  5月 3日原胤清(花押)井田刑部大夫殿 〃横浜町・神保文書
111555天文24年 6月24日原孫次郎胤貞(花押)法華経寺御同宿中判物市川市・法華経寺文書
121565永禄 8年 5月15日原上総介胤貞(花押)八釼左衛門尉書状木更津市・八釼神社文書
131566永禄 9年 6月12日胤貞(花押)妙泉寺判物木更津市・妙泉寺文書
141566永禄 9年 3月 日豊前守(花押)禁制船橋市・船橋大神宮文書
151577天正 5年 3月16日原豊前守(花押)高野山御庵宿中判物東京都・内藤文書
16 (年欠) 卯月29日豊前守胤長(花押)大神宮御師竜大夫殿書状 〃 ・東大史料編纂所文書
17 (年欠)  5月 3日原大蔵承胤長(花押)    〃 〃 〃      〃
181574天正 2年 3月25日原式部大夫胤栄敬白臼井庄本城妙見堂銘文千葉市・栄福寺釣燈籠
191576天正 4年正月27日原胤栄(花押)妙興寺御同宿中禁制多古町・妙興寺文書
201577天正 5年 5月20日胤栄(花押)判物千葉市・大巌寺文書
211579天正 7年 6月 日原式部大夫胤栄(花押)法華経寺掟書市川市・法華経寺文書
221583天正11年 9月14日胤栄(花押)鵜沢刑部少輔殿判物市原市・千葉文書
23 (年欠)  2月 6日胤栄(花押)高野山西門院貴殿書状和歌山県・西門院文書
24 (年欠) 卯月16日胤栄(花押)西門院参御同宿中 〃  〃    〃
25 (年欠)  5月17日胤栄(花押)大総御報 〃  〃  大須賀文書
26 (年欠)  6月11日式部大夫胤栄(花押)総三郎・志摩守殿 〃市原市・宍倉文書
27 (年欠)  9月 3日原胤栄(花押)香取大称宜殿御報 〃佐原市・香取文書
281584天正12年 3月 3日原若狭守親胤下総国東庄王子社経奥書東庄町・東大社文書
29(1587)(天正15年)正月25日奉原大蔵丞(花押)朱印状佐原市・香取文書
30 (年欠)  5月15日原大蔵丞胤安(花押)香取大称宜殿御報書状 〃   〃
31 (年欠)  3月10日大蔵丞邦長(花押)大神宮御使竜大夫殿 〃東京都・東大史料編纂所文書
注)文書の配列は世系別・年次順を原則とし、年欠文書は日付順とした。

 その後、しばらくの間、原氏は跡を絶ったが、千葉介満胤の子息胤高(法号慶岳宗盛)が、応永年間(一三九四~一四二七)「原四郎」を称して、生実城を修築して原氏再興の祖となった。この胤高は、応永二年(一三九五)の『神崎神社文書』に登場する「平胤高」と同一人物とみられ、後に原筑後守と称し嘉吉四年(一四四四)四月十九日に没している(『本土寺過去帳』)。この胤高以降、戦国期の原氏による発給文書を整理してみると、永享三年(一四三一)から天正十五年(一五八七)まで、約一五〇年にわたって三〇余種を認めることができる(「戦国期原氏の発給文書」参照)。高以これらの文書群を詳細に検討してみると、系譜類とはやや異った世系が認められ、生実・小西・臼井系をみると、胤降、胤義―胤房―(胤隆)―胤清―胤貞―胤栄と継承する嫡流的世系が想定される。単なる血脈による世系ではなく、原氏一門の利益を代表する「惣領」の継承であったと推定されるが、史料的には不明である。