原胤高の孫胤房(豊前守・法号昇覚)は、古河公方の足利成氏と上杉氏が対立する政治状況の中で公方側に与力し、宝徳三年(一四五一)以降、上杉氏を支持する円城寺尚任と私闘を繰り返した。やがて、千葉介胤直が上杉氏側に属して円城寺氏を重用するようになると、原胤房は馬加康胤と共謀して胤直に叛逆、康正元年(一四五五)三月、胤直、胤宣父子は千田庄の多胡城で自殺した(『鎌倉大草紙』)。千葉介の名跡は馬加氏によって継承され、胤房も勢力を回復するが、乱後の享徳五年(一四五六)六月には真間弘法寺(市川市)の寺領を安堵している(表1の第3・4号文書)。
原氏が本土寺の外護者となったのはこの時期で、本土寺の大檀那である曽谷氏は上杉方に加担し、その一族が「市川合戦」で敗死すると、公方成氏側の原氏が大檀那となっている。このことは、『本土寺過去帳』の前文に「原継図」が載っていることでも十分に理解される。さらに、本土寺の外護者が成氏方となったために、上杉方によって外護されていた本門・妙本両寺とは烈しく対立し、日朗以来の「三長三本」という密接な関係は破局に至っている。
また、連歌師(れんがし)宗長の『東路の津登』によると、永正六年(一五〇九)十月、浜野本行寺(千葉市)に止宿した宗長は、千葉妙見社(みょけんしゃ)の祭礼で「三日疋の早馬」や「延年(えんねん)の猿楽(さるがく)」を見物した後、原宮内少輔胤隆に招かれ「小弓の館」で連歌の酒宴を催している。当時、原氏は上総真里谷城(木更津市)の武田信保と対立、これを退けていた。『快元僧都記(かいげんそうずき)』によると、武田氏は足利政氏の子義明を擁して勢力を挽回、永正十四年(一五一七)十月十五日、生実城は落ち城主原次郎(胤隆か)は敗死したとある。義明は生実城に入って「小弓上様(うえさま)」「小弓御所」とよばれ、武田・里見などと連合して、房総半島の中央部に君臨したのである。また、『国府台戦記』によれば、天文七年(一五三八)十月、義明は北条氏綱の軍勢と下総国府台(市川市)に戦ったが、義明は敗死、生実城は焼き払われた。