生実周辺での実権を確立した胤清は、天文二十年(一五五一)二月、領内の金光院に対し「寺家新家敷幷門前之畠指副、永代進置候」との寄進状を発給している(第8号文書)。同二十四年六月、胤清の名跡(みょうせき)を継いだ孫次郎胤貞は、中山法華寺(市川市)に対し「千田・北条両庄之内、御門徒出家之上沙汰之事、蒐角寺家可為御許候」との判物を下している(第11号文書)。この胤貞は原上総介と称して、上総小西城に居領、やがて胤清の跡を継いで北生実城に移ったと伝えられる(『千葉大系図』)。
弘治三年(一五五七)八月、千葉介親胤が弑され、胤富が千葉惣領となったが、同年十月、千葉氏の重臣臼井景胤が死去し、原胤貞は胤富の要請を入れて、景胤の遺児久胤を補佐するために臼井城(佐倉市)に移ったと伝えられる。寛文十三年(一六七三)臼井秀胤の編纂とされる『千葉臼井家譜』によれば、胤貞は一か月の三分の二は臼井城本丸に住み、自ら政務万端を掌握、城主の久胤を門外の館に追いやる有様であった。このため、久胤は結城晴朝を頼って城下を去り、臼井城は完全に原氏の居城となったのである。
写真 臼井城址(佐倉市)
永禄二年(一五五九)の作出と推定される『小田原衆所領役帳』には、「御旗本他国衆、原上総介、六貫三百八十七文、入西長岡」と記され、すでに原氏が北条氏の旗本に組織されていたことは注目される。円城寺・木内・酒井・高城の諸氏とともに、他国衆として掌握された原氏は、武蔵国入西郡長岡郷(埼玉県入間郡坂戸町長岡)を給与されていた。以降、原氏は千葉氏の配下ではあったが、その勢力は「千葉に原、原に高城・両酒井」と俚謡にいわれるほど、主家をしのぐ実力を保持していたのである。