(4) 西上総の原氏所領

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 永禄四年(一五六一)安房里見義弘の重臣正木時茂は、北条方の千葉介胤富を大佐倉城(酒々井町)に攻め、同時に原胤貞の生実・臼井両城を攻撃してこれを奪取したが、翌五年には胤貞は生実城を回復した。永禄七年(一五六四)の「第二次国府台合戦」では里見氏が敗走、生実城付近は一時、小康状態を保った。当時、原氏の勢力圏は西上総の木更津付近にまで及んでいたらしく、永禄八年五月、胤貞は八釼神社の袮宜左衛門尉に宛てて「御所禱之巻数被差越候処、早速復本御丹誠之程残忝候」との書状を送っている(第12号文書)。さらに、同九年六月には妙泉寺に宛てて、「御寺領大鐘之内五分一方、如前々可有御知行」旨の判物(はんもつ)を発給するなど、胤貞は地下に対する領主制を確立していたものと推定される(第13号文書)。同年三月、里見氏と同盟していた上杉謙信は、里見氏を救援するために、北条方の拠点である原胤貞の臼井城を包囲した。一時は落城するかに見えたが、上杉方は多数の手負・死者を出して退却したといわれる(「諸州古文書・豊前氏古文書抄」『神奈川県史』資料編3所収)。また、『千学集抄』によると、元亀二年(一五七一)、勢力を回復した里見氏は、千葉・船橋付近まで進軍したといわれる。
 天正三年(一五七五)、原胤貞は子息胤栄(式部大夫・法号光丘大宗)に家督を譲るが、『千葉大系図』には「天正三年、胤貞は小西城に移り、胤栄をして臼井城に居らしむ。」と記している。その前年の三月下旬、胤栄は千葉妙見社に釣燈籠一基を寄進しているが、その銘文には「奉寄進、下総国臼井庄本城妙見堂金燈籠者也」と刻まれている(第18号文書)。さらに、天正四年(一五七六)正月には多古妙興寺の門前に「狼藉停止(ろうぜきちょうじ)」の禁制をかかげ同五年五月には生実、大厳寺に宛てて「御寺領幷御屋敷等」を安堵する判物を発給している(第19・20号文書)。一方、同十一年九月には鵜沢刑部少輔に対して「鋳物師(いもじ)大工職之事、領中不可有異議」旨の判物を与えており、西上総における原氏の所領が維持されていたことが知られる(第22号文書)。