このように、戦国終末期の原氏は、生実・小西・臼井の諸城を拠点として、両総国境の西部地域において強大な在地領主制を展開していた。その家臣団は「臼井衆」とよばれ、『北条家人数付』には「佐倉の千葉介三千騎、臼井の原二千騎」と記されている(『大日本古文書』所収)。千葉介の佐倉衆三〇〇〇騎の場合、実質的には在地諸豪の連合体であったと推定されるが、これに対して臼井衆二〇〇〇騎は原氏の直臣団であった。
上総介胤貞の甥にあたる肥前守胤長は、父の大蔵丞胤安とともに大佐倉の城中にあって、千葉介の後見職であった(第14・15・29・30号文書)。永禄九年(一五六六)三月、すでに胤長は父胤安に代って、船橋大神宮に対して「諸軍勢濫妨狼藉堅停止」の禁制を下している(第14号文書)。さらに、天正五年(一五七七)三月には、千葉介邦胤の後見として紀州高野山の連華三昧院(れんげざんまいいん)に宛てて、佐倉内外惣庄以下、印西庄内外十六郷などの「御庵室との由緒」を確認する判物を発給している(第15号文書)。同十年二月、邦胤は胤長に宛てて、「被任詫言印西外郷、守護不入之事、所及免許也」との判物を与えている(『根津文書』)。
天正十八年(一五九〇)四月、両総の諸豪の一部は、北条氏の動員令に応じて、手勢を率いて小田原城に参陣籠城したのである。原胤栄子息の刑部大輔胤義も臼井衆とともに小田原に赴いていたが、四月下旬、両総の諸城は豊臣軍によって攻略・接収されたのである。原氏の菩提寺である曹洞宗宗徳寺の位牌には「大賢院殿震嶽道雄大居士、天正十八年庚寅六月十八日、江府に被召切腹、胤栄長男刑部大輔胤義」と刻まれている。ここに筑前守胤高以来、約一五〇年にわたる原氏の歴史は終幕を迎えるが、同時に上総小西城も生実・臼井両城とともに廃城となったのである。
(本項中、古文書以外については、『角川日本地名大辞典』千葉県における千葉・生実・臼井・佐倉の項目を参考・引用させて頂いた。)