当町の城館址は確認しえたものとして、城址四、館址五、屋敷址一を挙げることができる。その分布は、台地上一、丘陵上二、谷奥平地六、海岸平野一となっており、清名幸谷~南横川を結ぶ線より東側の海岸平野中には見出していない。その年代は、谷奥平地、つまり、谷戸式館址については、十四~十五世紀の初め頃までの、その他は十五世紀後半~十六世紀代と推定される。城主は、一城、一屋敷については明確、また、一城についてはほぼ誤りないが、残りはいずれも不明である。ここでは、遺構が遺存し、かつ城として明瞭な四つの城址について図をもって説明し、残りは簡単に記するに止めたい。