性格

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 小西城は小西原氏の居城として有名である。原氏はいうまでもなく千葉氏の重臣であって、その有力な一系統が小西原氏である(詳細については第七節参照)。問題になるのはその築城年代であろう。『本土寺過去帳』には、文安四年(一四四七)に「道安原大和守小西殿舎弟」とあり、既に小西殿と称された人物を確認することができる。この小西殿とは、原壹岐守胤義あるいは肥前守胤継のことかと推測され、記録によってさかのぼることのできる最初の小西城主である。十五世紀中頃といえば、城そのものの構造は簡単なものであり、せいぜい浅い堀と土塁を廻らしたにすぎない。それゆえ、現在残る小西城の遺構とは相容れないものとなってしまい、伝承として残る正法寺境内の地か、あるいは全く別の地ということになる。また、現在の城址の場所に築城したのち、改修したということももちろん考えられる。現在の時点ではそのいずれとも判断はむずかしいが、あえて推測をのべるならば、当初は正法寺境内の地を活用したもので、城というよりは館である。あるいは柏原神社背後の舛形や、水道施設のある字平台の地の可能性もある。それが、十六世紀の初め、恐らく、胤次の代に現小西城山の地に築城したものではなかろうか。この十五世紀末~十六世紀の前半は、城郭の立地、構造の点で大きな変化がみられた時期であって、十六世紀の後半には、本城クラスの城であれば全体的に遺構の規模が大きく、また技巧的となる。小西城の場合も例外ではなく、その主郭部分などはまさしくこの十六世紀の後半の様相をよく示している。そこで思いだすのは『千葉大系図』にのるところの記述である。そこには「天正三年(一五七五)胤定移小西城」とあり、小弓、臼井両城の他に胤定の隠居城として、小西城の記載を認めることができる。この胤定とは、十六世紀代、原氏の勢力拡大に貢献した「胤貞」のことであろう。「千葉大系図」をそのまま信用することはもちろんできないが、城郭の構造変遷からみて、現在の遺構の内容が永禄(一五五八~一五六九)末~天正(一五七三~一五九一)にかけてのものとみられることより、上記のような状況を予想することはできる。それはまた、一時(永禄年間)、原氏がこの小西城をおわれたと想定される周囲の状況とも一致する。それにしても、小西原氏の居城である小西城は土気、東金といった近辺の他の主要城郭と比較した場合、決して大きなものではない。原氏に関する戦闘において、また近隣の両酒井氏の関係において、小西の名が見えないのもこの城の占める相対的地位を暗示しているのであろうか。