構造

227 ~ 228 / 1367ページ
 その構造は、地形条件ゆえに広い曲輪どりは認められない。しかし、尾根上を削平して小規模な曲輪を連ねている。まず、八幡神社社殿の地は最高所をなすが、大きくえぐられて旧状を止めえない。ただ、その北東の地は確かな削平地が遺存しているので、本来は自然地形をなす北西山頂(戦時の防空陣地跡)の南側にひとつの曲輪があったのであろう。主郭部とよんでよい遺構である。これに続いて、その北側に堀切を隔てて一郭、更に小丘、堀切、土塁をこえて一郭があり、後者は人工的に小丘を可なり削平した痕跡が窺える。この曲輪も、北側を堀切り、更にその北、矢口神社の背後で最後の堀切が認められる。興味をひくのは、この二つ目の曲輪の前後にみられる遺構である。それは、堀切とセットをなす小規模な土塁の背後に段を有するもので、このような遺構は東金の田間城にも存在する。主郭南側にも尾根上面を削平した細長い平坦地がみられる。しかし、これは前述したように後世の手になる可能性が高い。もちろん、当時においても何んらかの遺構があったのであろう。これら曲輪の周囲には腰曲輪が一段あるいは二段配置されているが、その傾斜の度合によって加減(設けない場所もある)しているようである。ただし、主郭の周囲は例外であって、可なりの傾斜面に細長い腰曲輪を廻らせている。

写真 永田城遠望