本城址についての記録は見当らない。それゆえ、構造を中心としたいくつかの推論を述べるに止めておきたい。まず、構造からみた城址の年代は十六世紀の前半~中頃と思われる内容を備えている。そして、種々の条件(たとえば、堀切の規模など)からして、十六世紀の後半、永禄~天正年間まで下るとも思われない。また、その立地や遺構のあり方からして、十五世紀代に求めることも適当でない。そうすると、十六世紀代における状況をまず省みる必要があろう。十六世紀前半といえば、山辺郡における酒井氏の権力が確立した頃で、ようやく周囲に勢力の伸長を計っていた時期である。既に土気、大網の土豪の多くは自己の傘下に組みこんでいたが、南隣の本納は未だその勢力外にあった。このような状況にあって、本納城を遠望でき、かつ地理的にも重要なこの一丘陵に、境目の城として築城したと考えるのはどうであろうか。もちろん、この城を酒井氏の有力家臣の持城として一勢力をあてることも可能であろう。ともあれ、本納領を手中にした永禄年間以降、本城の戦略的価値はなくなったので、それとともに廃城、あるいは改修することもなくおかれたものであろう。