構造

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 尾根上に明瞭な遺構が現存する。まず、熊野神社の西南の尾根小丘上に小規模な削平地があり、更にその片隅に櫓台と思われる高台が付属する。主郭としてよい場所である。この南側により広い削平地があって、その東側には腰曲輪状の削平地が階段状に連なっている。主郭の北側は大堀切をへて、浅間神社までは自然地形であるが、その先は堀切をへて日吉神社北側の小さな曲輪となる。それより先は三重の堀切が連続し、その後に比較的まとまった削平地が二段程認められる。現大網小学校の裏手である。その先は大きく削られ、城址の北限としてよいであろう。これら曲輪の周囲には急斜面を人工的かつ大規模に削平して腰曲輪を廻らしており、特に西側などは注目に値するといってよい。以上が城址の概要であるが、本城址の場合、山下の平地部分にも何んらかの遺構が存在したと予想される。しかし、残念ながら周囲は全く市街地となっているので、現状では判断が困難である。
図8 要害(大網)城址
図8 要害(大網)城址
写真 大網城遠景
写真 大網城遠景

 ところで、城址南端の麓の平地は城手と呼ぶ屋号があり、虎口の存在を暗示している。おそらく、主郭の南東方向に大手があったものであろう。それから、この城手の南東二百メートルの大網白里農協の付近にも下屋敷という屋号があり、これも城と何んらかの関係があったものであろうか。また、本宿という字から、あるいは、城址東側山麓一帯は家臣及び一族郎党の屋敷址であったかと推測される。
 最後にひとつ、西側は国鉄東金線によって尾根が切断され、西側丘陵との関係を明らかにしえない。しかし、この地区には顕著な遺構が見当らず、おそらく大堀切によって要害部分を切り離していたのであろう。