近世の史料の多くはその内容に誤りが多く、そのまま信ずることはできないが、板倉氏の存在そのものを否定することはできないであろう。問題は真実と思われる内容をどれだけ引き出しうるかにある。
板倉氏の屋敷址と伝えられる長峯の地は、近世になってその子孫が代々居住したにすぎず、本来は要害城の麓(おそらく東側中腹の地か)にあったものであろう。その出自は不明であるが、土気の南に板倉があり、あるいはこの地を苗字とした土豪層の出身とすべきかもしれない。それが、酒井氏の勢力の拡大に伴い大網城主として、当地の経営にあたったと考えるのはどうであろうか。現在残る城址の遺構は明らかに十六世紀後半、それも、戦国最末期の様相を伝えている。史料にみえる板倉大蔵介なる人物の年代は城の構造とも矛盾しない。彼こそ初代の大網城主としてよいかもしれない。そして、二代長門守の時に本城はその生命を終えたのではなかろうか。
ともあれ、要害(大網)城は、土気酒井氏の重臣板倉氏の居城として、また、その遺構の保存状況のよさから、城郭研究上の好資料というべき内容を備えている。