清名幸谷の幸谷(こうや)とは、一説に広野の転化であるという。しかし、この幸谷とは、東金市の北之幸谷あるいは成東町の富田幸谷のように、平城(ひらじろ)における宿城(しゅくじょう)、つまり、家臣団の居住する外郭を意味すると考えたほうがよい。とはいっても、彼らの主君はいずれも西方の根城に居るので、この場合などは土豪層の屋敷兼城郭といったほうがよいだろう。前にあげた二ケ所のそれは、明らかに十六世紀代の平地城郭と考えられ、城堀、古城、輪ノ内、堀ノ内等の字名を残している。おそらく、沼地にかこまれた微高地という、海岸平野中の要害の地を選んで築城したものであろう。そして、その人物は江戸時代に至り名主層として、自らの地位を保っていったことが推察される。