法力ニテ武士之出世之事共相尋、御祈禱御頼被レ成
とある。千葉市土気町本寿寺に伝わった「土気古城再興伝来記」(以後「伝来記」と略記)には渡海中に猛風にあい漂流しはじめ、日泰の祈禱の効験により危難をのがれた話をのせている。南北朝・室町期には新仏教の地方への進出にあたって呪術(じゅじゅつ)・祈禱がむかえられていたというが、いまの話は日什門流における雰囲気を伝えるものである。日泰の祈禱経が千葉市浜野の本行寺に、また東金市の本漸寺の開山となった日親の祈禱経も伝わっている。この祈禱経(きとうきょう)は巻子装で縦一七・五センチ、長さ六メートル五〇センチ、「末法一乗行者息災延命所願成就祈禱経文 日蓮撰」と題され、末尾に「日蓮上人日什上人日仁日遵日親敬白永正七年庚午四月十五日於妙満寺一夏五種修行時焉読行此品奉書写擬逆修處也法印権大僧都日親(花押)」と記されている。日親は、日泰よりおそらく年若い僧で、同じように妙満寺一〇世日遵の門下であった。
写真 本寿寺(千葉市土気町)
定隆と日泰の関係を語る確実な史料は「本興寺棟札銘」である。本興寺は日蓮辻説法の地を記念して鎌倉の商業区域である大町の辻に創建され、日什門流の開祖玄妙日什が鎌倉公方足利氏満を諫暁した永徳二年(一三八二)に同門流に改宗した寺である。
「本興寺棟札銘」に
(A) 然今此法華山本興寺、聖人開闢以後、文明十三辛丑歳林鐘仲旬十六代之祖沙門日泰大檀那酒井清伝、(中略)、此堂建立而巳、(下略)
本興寺の由緒を記した部分である。日什によって改宗されて約百年後の文明十三年(一四八一)の六月中旬、妙満寺一六世の日泰と檀越酒井定隆(清伝)によってこの堂が建立された。「棟札銘」は永禄二年(一五五九)九月にかかれたものであるが、日泰と定隆の関係が周知のこととして伝えられていたことがわかる。
土気城進出を長享元年(一四八七)としてもそれにさきだつ六年前の出来事であり、すでに日泰と定隆の密接な関係をうかがわせるものである。
この関係には定隆が日泰の信仰、学問、新知識といった人間的魅力のほかに、その背後にある中央地域との経済的・文化的連係にもはやくから注目していたことが考えられる。
ここで日什門流について大まかにふれ、日泰に言及してみよう。
日什門流の祖となった玄妙日什は岩代国会津郡黒川にうまれた。黒川(会津若松市)は戦国大名の芦名氏の城下として形成されるところである。出家して十九歳のとき比叡山にのぼり横川の慈遍に学び、三十八歳のとき能化(のうけ)となったという。このことについては関東天台の仙波檀林の能化であったともいわれる。五十八歳のころ黒川にかえり、会津修験(しゅげん)の中心である羽黒山湯上神社の別当東光寺の住持となった。しかし、たまたま日蓮の著作「開目抄」「如説修行抄」をよんで感得し、康暦二年(一三八〇)天台宗より日蓮宗に帰依した。はじめ富士門流に属したが、のち下総真間の弘法寺(ぐほうじ)、中山の法華経寺に学んだ。日蓮自筆の聖教が保存されているのを知って学ぶためであったろう。
このような熱意は弘法寺三世日宗にみとめられて真間の学頭(がくとう)となった。寺には日什の帰伏状というものが残っている。「雖レ為二富士門弟一背二大聖人之御法門一被レ立二邪義一候間、於二彼門流一、為二大聖人之御本一下総真間之奉二正義帰伏一之處也。仍帰伏之伏如レ件 康暦二年庚申三月廿三日 沙門日什(花押)」 この帰伏状について相田二郎は「康暦二(天授六)年三月廿三日日蓮宗の僧日什が富士派に属していたが、下総真間の弘法寺流派の正義に従服することを表明するために作った証文である。かような証文は他に類をみない様である」といっている(『日本の古文書』上)。当時の雰囲気を伝えるものである。
日什はやがて諫暁(かんぎょう)のため上洛し、六条坊門室町に住む商人天王寺屋通妙宅を宿舎とした。このあたりは商業区域として発展の著しいところであり、永徳三年(一三八三)にはこの地に小庵をかまえて弘通の根拠とした。庵はのちに宝塔山妙満寺と号し本山とされた。日蓮宗が町衆(まちしゅう)のなかに広まるのは、町衆への伝道と商業区域への寺院の進出である。
至徳二年(一三八五)には「法華本門戒血脈」において日什は「久遠成道釈迦牟尼如来―日蓮大師―日什」とする法脈をしめし、嘉慶二年(一三八八)には「日什門徒可二存知一事」を定めて法脈相承を直接日蓮にもとめる日什門流をおこした。三代将軍足利義満、鎌倉公方足利氏満らに諫暁をおこない、京都に妙満寺、遠江の見附に玄妙寺、鎌倉に本興寺、品川に本光寺、故郷黒川には妙法寺を建立して明徳三年(一三九二)にこの地で没した。
上総における日什とその直弟子による寺の建立は千葉市から木更津、君津市方面にその跡をとどめる。千葉市の本円寺、木更津市の成就寺、本立寺、君津市の正覚寺などである。
日什が没して約七十年、妙満寺一〇世日遵のもとに日泰がいた。宗内の古伝によれば、日泰は京都の白川のうまれ、日遵の教えをうけ、南都北嶺(なんとほくれい)の寺々で学んだという。
応仁の乱勃発の京都を去って東国の下総、上総方面に新天地を求めた。著作は伝わらない、日泰は折伏逆化の伝統にたつ人であったという。
文明元年(一四六九)に下総浜野の廃寺をおこして堂をかまえて本行寺と号すると、東上総方面への伝道がはじまった。この寺が確実な史料にあらわれるのは、四十年後である。それは連歌(れんが)師柴屋軒宗長の紀行「東路の津登」の永正六年(一五〇九)七月の条である。
原宮内少輔胤隆小弓の館のまえに浜の村の法華堂本行寺旅宿なり。
とみえ、中央文化の地方普及の拠点になっている。
このころ本願寺の蓮如(れんにょ)が惣(そう)の結合の進む近畿、北陸の農村に教団の基盤をおこうとしていたうごきとはきわめて対照的である。
藤井学は「日泰に象徴される洛内(らくない)門流の東国への伝道は、日像の上洛以来、関東よりつねに西上していた教線の流れが、戦国期に入ると、逆に洛内より東国へ還流し始めたことを示し、名実ともに教団の主流的立場が東国に移向しつつあることを物語るものであろう」といっている(『日本仏教史』二中世篇)。
土気から大網をへて東金・本納にいたる一帯は、円覚寺領、浄光明寺領、報国寺領などが所在する地域であって、真言・天台の伝統二宗と禅宗が強かったようにうかがわれる。
「双廃記」には定隆が日泰をまねいてまず城下の本寿寺、善勝寺を日蓮宗となして、
夫ヨリ段々御城下御知行内、不レ残法華一宗ト罷成、(下略)
とある。「伝来記」にも同様な記述がなされている。
これに関連しては「長享二年の改宗令」とよばれてきた史料がある。ここでは『妙満寺概観』(山根日東編述 昭和十六年)所収のものを紹介してみよう。
御觸
一此度此領分村々以二思召一法華宗ニ被仰出候、尤是迄法華宗之處ハ其儘可被置、
外宗之儀ハ不残日蓮法華宗ニ可相成、若違背者有之ハ可為曲事者也
長享二戊申年五月十八日
伍奉行 栗原助七印
宮島伝七印
右村々名主中
同書はこの史料が土気町の吹野家に伝わったものであることをしるされている。この史料をもって改宗の根本史料とみる見方もおこなわれてきたのであった。小川力也はこれに疑義をいだき、この史料が形式だけから判断しても、あまりにも近世的要素がつよく、したがってこれを長享二年(一四八八)のものとは判断し難いことをしめされた(『房総の郷土史』第三号所収)。
ここで「本興寺棟札銘」にあらわれた寺を※でしめし、近世に上総十ヵ寺とよばれた寺を○で明示した次の表をしめそう。
表よりわかることを以下にまとめる。
(一)東上総における日泰とその門下の活動は文明三年(一四七一)ころにもとめられる。
(二)創建、改宗は長享二年(一四八八)だけではなく、約一〇〇年の間におこなわれたとみることができ酒井氏の領国の拡大とも関連している。改宗にあたって破壊をともなった伝えをもっているのはここでは法光寺のみである。
(三)十カ寺のうち、あらたに創建されたものは三、改宗が七で圧倒的に多い。また改宗以前の宗派は真言宗、天台宗の伝統二宗と新仏教の禅宗などの宗派である。
(四)寺地が移転したことを伝えるものに本漸寺・妙福寺(東金市台方)があり、寺を城周辺(東金城)に配置している。
(五)改宗にさいしてそれまでの寺の什物をうめたと伝えられるお経塚の遺跡を各所に残している。土気城跡の西北約一キロメートルにある遺跡は土気酒井氏の墳墓ともお経塚ともいわれ、椎の大木がうっそうと繁る。
寺院名 | 改宗前の宗派 | 改宗年 | 関連の人物 | 所在地 | 備 考 |
※本寿寺 | 創建 | 長享二年 | 日泰 | 千葉市 土気町 | 現寺地ではないという伝えもある。 |
※善勝寺 | 真言宗で極楽法寺と称す | 長享二年 | 日道 | 千葉市 土気町 | 「本興寺棟札銘」に善生寺とある。 |
※蓮照寺 | はじめ信楽寺と称す。現寺地に移転して改称 | 明応五年 | 日誓 | 大網白里町 | |
※本国寺 | 真言宗で善興寺と称す | 文明三年 | 日肝 | 大網白里町 | 元和年間、宮谷檀林となる |
※西福寺 | 天台宗で最福寺と称す | 文明十一年 | 日近 | 東金市 | 現在は最福寺と改称している |
※本漸寺 | 禅宗で願成就寺と称す | 文亀元年 | 日親 | 東金市 | 東金市松之郷にあり大永元年に現寺地にうつる |
○妙徳寺 | 他門流からの改宗 | 永正五年 | 中興開山 日秀 | 東金市 | |
○本松寺 | 創建 | 明応五年 | 日哲 | 東金市 | 「本興寺棟札銘」の本納寺はこの寺のことか。 |
○法光寺 | 真言宗で西法寺と称す | 長享二年 | 日泰 | 東金市 | |
○蓮福寺 | 創建 | 天正八年 | 日遊 | 茂原市 | 本納城跡にたてられたという。 |
万光寺 | 真言宗で満山寺と称す | 文明一七年 | 日泰 | 茂原市 | 「本興寺棟札銘」の万水寺とはこの寺のことか。 |
土気城に進出した定隆が、すでに上総に進出していた日什門流の日泰とその門下の活動を保護し、政教一致的な領国支配の形成をねらい、日泰も日什門流の新しい地盤を皆法華という革新的な状況で確保したといえよう。
また、日泰が戦乱に苦しむ農民の心をとらえたこともおとせない。
政治と宗教が深くむすびついた様子を、川添昭二は「主要な寺院を戦略的拠点に配置し農民独立の道をとざし、地侍層を軍事組織のはしばしにまでくみ入れ、領内の住民をことごとく日蓮宗に強制改宗させて政教一致的体制をうちたてた」(『宗教史』昭和四十一年)といっている。
定隆は晩年に土気城を長子定治につがせると東金に進出し、東金城主に三男隆敏をすえた。清伝入道を号したのもこのころだという。以後、土気・東金の酒井氏を両酒井とよぶよびかたもおこなわれたのである。
両酒井氏は土気・大網・東金のほか、本納、依古島方面に支配を拡大した。
土気城主四代胤治が本納城主黒熊大膳亮を滅亡させ、城代をおいたのは永禄年中のことであるという。その城跡、本城山のふもとにつくられたのが蓮福寺である。日遊によって天正八年(一五八〇)にひらかれたという。
「本興寺棟札銘」には土気城主の胤治の一族がそろって名をつらねている。
故清伝之裔酒井中務丞胤治、嫡子小太郎政茂・酒井大炊助信継、胤治老母酒井大炊助御内方、本納之上、東之上、富田八郎太郎、生実御台、酒井左衛門佐胤敏、胤敏老母、酒井九郎右衛門尉
このうち、胤治以外は現存の他の系図、記録類にはいっさい姿をみせぬ人々である。「小田原衆所領役帳」に「一酒井中務丞 拾四貫弐百八十壱文 同新堀、一同佐衛門 八貫七百文 かけの上」とある。中務丞とは胤治、左衛門とは東金城主のことなのであろうが胤敏であるのかないのか明らかにできない。
同じく「棟札銘」に棟上の祝言馬太刀の人数を記した部分がある。
酒井中務丞胤治 太刀 同馬 左衛門佐胤敏 太刀 馬 本行寺日行 口入馬 蓮照寺日盛 馬 満水寺日要 馬 本寿寺日修 馬 本光寺日顗 馬 最福寺 馬 本国寺日典 馬 本納寺日[ ] 当住持善生寺日芸 馬 酒井大炊助 馬 当寺衆中 馬 当寺檀那衆 馬 以上太刀二、馬十五、
胤治の時代の日什門流との関係を物語って興味深い。
ここに記されている寺院は、品川の本光寺、浜野の本行寺、土気の善生(勝)寺、大網の蓮照寺、本国寺、東金の最福寺、本納寺(本松寺カ)、満水寺(満光寺カ)の九ヵ寺で武蔵一、下総一、上総七である。上総七はすべて酒井氏領国の要地に所在した有力寺院とみることができ、時に応じた役割りをはたしたはずである。
また名をつらねる僧たちのなかで筆跡および酒井氏一族との交流を伝えているのは「本国寺日典」である。この人は「本国寺歴代帳」にみえる五世日典のことである。
胤治の弟の板倉大蔵(介)は大網郷長峯に居住し板倉を称した。その子が板倉長門守で一族中の教養人であり「双廃記」の著者である。日典と板倉長門守の交流を語る史料の一部は東金市山田の板倉俊夫氏が所蔵されている。日典が板倉長門守に宛てた文禄元年(一五九二)の書状、日典筆の文禄三年の万荼羅の二点は達筆でそのおもかげをよく伝えているようにもおもわれる。
また同家安置の祖師像旧厨子の墨書銘断片には
天正一八年庚寅卯月八日 日典(花押)
(この部分不明)
願主板倉長門守
とみえる。
「双廃記」で板倉長門守がひとつの話をのせている。五代康治の弟で悪僧の一位が住持の日典を寺から追い払い自分が住持になろうとした事件を語り「某随分骨折申候」とむすんでいる(この話は「伝来記」にものせられている)。
この間、日什門流との関係はかわることなくつづき、近世に上総十ヵ寺(前出)とよばれる有力寺院の基礎は酒井氏時代にできたといえよう。
両酒井氏は、北条氏の小田原籠城にさいしてはこれに参加し天正一八年(一五九〇)七月その敗北によって上総衆としての約百年の支配に終止符をうたれた。
日蓮宗では南北朝。室町時代いらい法華経にかんする論争、受不施の論争伝道の方法についての論争などがたたかわれていた。近世における東上総を中心とする日什門流ということでみても、この論争を土台にし、江戸幕府の宗教政策に対応した顕著なうごきがみられ、以後の信仰、学問の根本にかかわってゆくことになった。