さらに、千葉介親胤はおごった性格で、施政にあたっては私情を交えるなど一族・家臣の信頼をうらぎる傾向があったらしく、弘治三年(一五五七)八月、親胤は逆臣のために殺害させられるに至った。この事件によって、森山城(小見川町)にいた叔父の胤富が、一族・重臣に推されて千葉介を継ぐことになった。やがて、胤富は森山城から佐倉の本城に移るが、森山城へは小見川城の粟飯原源公入道(胤次)が入部した。森山城主となった粟飯原氏は、胤次以後、胤光・胤俊と継ぐが、『千葉大系図』には「胤光、実は北条氏康の九男也。天文十六年、胤光七歳にて源公の養子となりて継嗣」とある。このように、当時、北条氏は千葉一族の中にも深く根を張っていたのである。
国府台前役において足利義明が敗滅すると、後北条氏の両総支配は急速にすすみ、千葉氏の庶流にも直接支配力を及ぼすようになった。例えば、永禄元年(一五五八)閏六月には、下総の大須賀式部丞に対して、小田原より下総までの公用伝馬手形を出している(『大須賀文書』)。さらに同二年二月には、太田豊後守・松田筑前守らを奉行とする『小田原衆所領役帳』が整備され、その中に原上総介以下、高木(城)・木内・円城寺・匝瑳など千葉氏庶流の人々が、北条氏の家臣団として書き上げられている。
千葉氏と後北条氏の関係系譜
他国衆 | 貫 文 | ||
原上総介 | 6.387 | 入西長岡 | |
酒井中務丞 | 14.281 | 入西新堀 | |
酒井左衛門 | 8.707 | かけの上 | |
高城 | 17.304 | 東郡小薗・飯島木部分 | |
江戸衆 | 木内宮内少輔 | 57.304 | 江戸石浜・今津・葛西堀内 |
円城寺 | 51.220 | 六郷鎌田・多東郡石田・道宗分・上野 | |
匝瑳蔵人佑 | 47.360 | 戸ケ崎 | |
まず、他国衆の原上総介胤貞(生実・臼井城主)は、埼玉県入間郡坂戸町長岡付近において役高六貫三八七文の所領を得ており、東金・土気の酒井氏も隣接する坂戸町新堀・欠上付近に所領を給されていた。さらに、小金城主の高城下野守胤辰は、役高一七貫三〇四文をもって横浜市飯島町付近に所領を得ている。一方、武蔵千葉介に付属したとみられる木内宮内少輔(五七貫余)・円城寺(五一貫余)・匝瑳蔵人佑(四七貫余)は、それぞれ江戸衆として把握されている。
反面では、上総地方に北条氏の直臣団とみられる人々の給地も認められ、安房里見氏に対する常駐軍の存在が知られる。例えば、江戸衆の一人である加藤太郎左衛門尉は、小糸川流域の永郷(君津市)において二〇〇貫文を知行している。さらに、小田原衆の加藤大蔵丞は、佐貫近辺大堀において二三貫四〇〇文を知行しているが、現在の富津市大堀付近かと推定される。また、玉縄衆の一人である朝倉右馬助は、現在の君津市杉谷付近において二五貫文を知行している。これらの人々は、安房・上総の国境にあって、里見氏の北上・東進を警戒して常駐したものと推定される(現在地比定は『角川日本地名大辞典』に準じた)。
元亀二年(一五七一)に元服した胤富の子邦胤は、北条氏政の女を妻としており、天正七年(一五七九)五月、胤富の跡を継いで千葉介となった(『千葉大系図』)。さらに同十三年(一五八五)五月、邦胤は家臣鍬田氏によって佐倉城内で謀殺されるが、その跡を嫡男千鶴丸(重胤)が継ぐが、幼少であったために臼井城の原氏が補佐することになった(『関東八州古戦録』)。実質的には、佐倉城代となった原胤成が、北条氏の意をうけて下総支配を継承した。その後、重胤は小田原へ在勤し、事実上の人質となり、氏政は氏直舎弟の七郎殿を佐倉城に下向させている。
『群書系図部集』第四巻所収の「北条系図」によると、左京大夫氏直の弟として七郎(氏時)・十郎(氏房)を載せ、「七郎をもつて佐倉の千葉遺跡を継ぐ」と註記している。千葉氏関係の類書では未確認であるが、『小田原一手役書立写』(「安得虎子」所収)には「七郎殿さくら」とあって、以下の人々を列記している(『神奈川県史』資料編)。
佐倉御旗本 | |
原殿 うすい | (原大炊介胤次) |
高木 こかね | (高城下野守胤則) |
豊嶋新六郎 ふかわ | (豊島左衛門尉明重) |
土岐殿 江戸崎 | (土岐美作守) |
岡見治部太輔 牛久 | (岡見治広) |
岡見中務 足高 | (岡見宗治) |
相馬殿 | (相馬治胤) |
やなた殿 | (簗田助実) |
助崎殿 | (大須賀) |
大須賀殿 | (大須賀) |
伊田殿 上総坂田井田因幡守 | (井田胤徳) |
酒井伯耆守 とけ | (酒井康治) |
酒井左衛門尉 とうかね | (酒井政辰) |
以 上 |
後北条氏の両総支配の進行とともに、邦胤没後の千葉氏はまったく形式的な存在でしかなく、ほぼ完全に氏政・氏直の傀儡政権と化したのである。邦胤に嫁した氏政の女には実子がなく、氏政は庶子である七郎殿をもって姉の養子として、佐倉の本城を直接支配下に治めたものと推測される。