川名登氏の「小田原落城と房総」(『郷土千葉の歴史』)によって、この動員令の実態をみると、「坂田城(横芝町)の井田胤徳の許へは、天正十七年(一五八九)十二月十七日付で北条氏政の指令がとどいた。そこには、総勢二二五人の軍兵を率いての参陣をもとめ、その内二五人を居城の守備として在所に置き、残り二〇〇人の内七〇人は明正月十一日までに小田原へ着陣すべきこと。残りの一三〇人は準備をして待機、秀吉軍の動きに応じて召集するので、飛脚を一人、夜通し馳けられるようにして、早急な連絡方法を準備するようにと下知されていた(『井田文書』)。さらに、同月二十八日付の氏政からの指令によって全軍出陣に決定したので着到の人数に一騎一人も不足の無いようにして、来正月十五日までに全員参陣すべきこと、さらに北条家の命運をかけての一戦なので、武具・人数等よくよく準備し、その気構にて参陣するようにと指示されている。また、小金城(松戸市)の高城(たかぎ)胤則は、同年九月、戦費調達のために全領内に棟別銭を課し、今度の戦いは領内安全のためであるから、古来からの不入の場所もその特権を認めない旨、非常事態を宣言して小田原に参陣している(『高城家文書』)。」
一方、秀吉側もかなり早くから情報把握に努力していたらしく、その結果を関東進出の直前に配下の部将に回覧したようで、その写本が毛利家文書に収載されている(『大日本古文書』)。現在、氏政・氏直ら北条一門とその家臣らの兵力を明記した「北条家人数付」と、関東八箇国の諸城主名とその兵力を連記した「関八州城之覚」とが伝存しており、ともにひとつの根本史料として評価されている。この文書によれば、豊臣方が小田原派兵に際して探索した北条氏の兵力は総勢三万四二五〇騎(五三ヵ城)であり、両総の兵力は一万二五〇騎であった。ちなみに、これらのうち千葉介三〇〇〇騎、原大炊介二五〇〇騎、長南武田氏一五〇〇騎、万喜土岐氏一五〇〇騎が注目される。(「徳川家康の新領国に対する家臣団配置」川村優『歴史手帳』昭53)
NO | 城 名 | 城 主 名 | 城兵数 | 現 在 地 |
1 | 万 喜 | 土岐弾正少弼頼春 | 1500騎 | 夷隅郡夷隅町字万木 |
2 | 蛇 塚 | 同上抱(鑓田美濃守) | 〃 大原町小浜 | |
3 | 鶴 賀 | 同上抱 | 〃 岬町中原字古城 | |
4 | 小田喜 | 正木大膳時堯 | 〃 大多喜町泉水 | |
5 | 佐 貫 | 加藤太郎左衛門尉 | 富津市佐貫町字午房谷 | |
6 | 長 南 | 武田刑部大輔豊信 | 1500騎 | 長生郡長南町庁南 |
7 | 勝 見 | 同上抱 | 〃 睦沢村寺崎 | |
8 | 池和田 | 同上抱 | 市原市池和田字城廻 | |
9 | 東 金 | 酒井右衛門尉政辰 | 150騎 | 東金市東金字御殿山 |
10 | 土 気 | 酒井伯耆守胤治 | 300騎 | 千葉市土気町 |
11 | 大 台 | 井田刑部大輔胤徳 | 150騎 | 山武郡芝山町大台字要害 |
12 | 坂 田 | 同上抱 | 150騎 | 〃 横芝町字登城 |
13 | 蕪 木 | 蕪木駿河守常信 | 300騎 | 〃 松尾町蕪木字美濃輪 |
14 | 鳴 戸 | 成東兵庫介将胤 | 〃 成東町上町字入道山 | |
15 | 造 海 | 正木淡路守居城 | 3000騎 | 富津市竹岡字城山 |
16 | 勝 浦 | 正木左近大夫居城 | 勝浦市勝浦字郭内 | |
17 | 吉 浦 | 同上抱 | 安房郡江見町吉浦 | |
18 | 一 宮 | 鶴見甲斐守居城 | 長生郡一宮町一宮 | |
19 | 久留里 | 山本越前守居城 | 君津市久留里字城山 | |
20 | 小 糸 | 里見弾正少弼居城 | 〃 西粟倉字秋元 | |
21 | 興 津 | 正木左近大夫抱 | 勝浦市興津字要害 | |
天正十八年四月上旬、秀吉は西国・北陸・東海の諸大名を動員して、氏政・氏直父子の小田原城を包囲攻撃した。圧倒的な豊臣軍の物量作戦・包囲戦術には、長期の籠城持久戦も功果なく、七月五日、氏政は城を出て自殺し、氏直は紀州高野山へ閉居となり、関東の覇者北条氏はあえなく没落した。その結果、関東はもとより奥羽までも平定され、ここに秀吉の全国統一は完成したのである。