三 豊臣軍の房総平定

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 さて、小田原城包囲の態勢が整った四月下旬、秀吉は家康と相談して、別動隊を出して武蔵・両総方面の北条方の諸城を攻略することを決めた。すなわち、秀吉の麾下の浅野長吉(長政)・木村重玆の一隊と、家康の家臣である本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉らの一隊を派遣するに至った。四月二十二日以降、江戸城を収めた両軍は諸城を攻略しつつ、両総地方へと兵を進めた。『房総治乱記』や『関八州古戦録』によると、上総・下総の一帯はたちまちにして徳川方の派遣軍の席捲するところとなり、「家康公の御威光には、一日の中に五十の城落さる」という状況であった。さらに『家忠日記』や『当代記』、あるいは『千葉臼井家譜』などによれば、家康麾下の内藤家長・酒井家次も平定作戦に加わり、五月下旬、家長は原胤成の臼井城、家次は千葉氏の本拠佐倉城を攻略している。
 一方、浅野・木村の両将が率いる豊臣軍の進路は、四月二十九日、武蔵の浦和郷を経て下総の葛西二十三郷・野田庄十一郷に移り、さらに五月上旬には下総万福寺・印東庄本佐倉十二郷・大戸庄六箇村・匝瑳庄見徳寺に禁制を下し、近隣の諸城砦を攻略していった。
 房総地方に現存する豊臣軍禁制は、掲表の如くであるが、写本も含めて約一〇通が確認され、豊臣軍がきわめて短期間のうちに両総を席巻した経過を知ることができる。すなわち、四月下旬、野田地方に進んだ豊臣軍は、五月中旬には馬橋(松戸市)・印東(佐倉市)・大戸(佐原市)を経て郷土近郊の八日市場地方まですすみ、さらに六月以降、七月上旬までにはほぼ上総一円を制圧したのである。この禁制一〇点をよく整理してみると、(1)豊臣秀吉禁制六点、(2)浅野・木村連署禁制三点、(3)浅野・木村連署添状二点に区分され、本来は「野田庄内十六郷中」宛禁制のごとく朱印状と添状を一組として発給されたものと考察される。以下、代表的禁制を紹介しながら、その条々について若干の検討を試みたい。
表9 両総地方の秀吉禁制
日付布 告 地禁A禁B添状史料所在地
4.1野田庄内十六郷中野田市・興風会図書館
5.下総国万満寺松戸市・万満寺
5.2印東庄本桜十二郷佐倉市・勝胤寺
5.大戸庄六箇村佐原市・大戸神社
5.下総大須賀分領(浅野家文書所収)
5.匝瑳庄見徳寺八日市場市・見徳寺
6.一宮観明寺幷門前一宮町・観明寺
6.長南三途台長福寺長南町・長福寿寺
7.周東神野寺君津市・神野寺
7.真里谷真如寺木更津市・真如寺
注) 禁Aは豊臣秀吉禁制,禁Bは浅野・木村連署禁制を示している。

 史料①  (野田市興風会図書館文書)
  禁制    庄内十六郷中
 一軍勢乱妨狼藉之事、
 一放火事、
 一対地下人百姓申懸非分之事、
  右条々、於違犯之族者、可處厳科者也、
   天正十八年四月一日    御朱印
 史料②  (史料①の添状)
 当所江御朱印取次候而遣候間、狼藉之族有間敷候、若違
 犯之輩於有之者、此方ヘ可申来候也、
   五月朔日             浅野弾正少弼
                        長吉(花押)
                    木村常陸介
                        一 (花押)
 史料③  (八日市場市見徳寺文書)
  禁制    下総国匝瑳庄見[ ][ ](徳寺)
 一当手軍勢乱妨狼藉之事、
 一放火之事、
 一対地下人百姓申懸非分之儀幷麦毛苅取事右条々、
  堅令停止訖、若於違犯之族在之者、可処厳科者也、
    天正拾八年五月日
             浅野弾正少弼  (花押)
             木村常陸介   (花押)
 史料④  (木更津市真如寺文書)
  条々    上総国真里谷真如寺
 一当寺門前百姓等、急度可還住事、
 一陣取幷不可採竹木事、
  一対寺僧門前輩、非分之儀申懸族在之者可為一銭
   切事、
   右若於違犯之輩者、忽可被処厳科者也
    天正十八年七月日     御朱印
 
 まず史料①③では、(A)派遣軍兵士の地下人に対する乱暴行為と(B)放火を禁止し、(C)地下人・百姓等への強要および農作物を奪うことを禁止している。さらに史料④では、(D)逃散(ちょうさん)百姓の帰住を勧告し、(E)境内竹木の伐採を禁止し、(F)寺僧庶民への乱暴強要を厳しく戒めている。史料④の「一銭切」については、多くの所説があるが、要するに斬罪のことであって、一銭(一文)の斬賃で非人に首を切らせたものだと伝承される。さらに史料②の添状は、秀吉の朱印状を給付した社寺・村落に対して、狼藉を働く者があれば豊臣軍まで連絡せよとの内容である。
 この禁制は、派遣軍兵士の地下人に対する乱暴行為と放火を禁止し、さらに百姓等への強要および農作物を奪うことを禁じている。
 この房総平定によって、在地における領主層は、城郭所領を収公され、ある者は他国に逃散(ちょうさん)、ある者は旧領内に蟄居(ちっきょ)するに至った。一方、千葉介重胤は幼少なので助命はされたものの、徳川方の酒井忠次によって居城とすべての所領を没収され、零落して江戸に在ったが、寛永十年(一六三三)病没したと伝えられる(『千葉県の歴史』小笠原長和・川村優)。