(1) 秀吉の関東制圧

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 天正十五年(一五八七)、九州平定を成し遂げた豊臣秀吉は、休む間もなく全国制覇を目指して、関東・東北の制圧に乗り出した。当時、関東を支配していた戦国武将は、小田原を本拠とする北条氏政・氏直父子で、その領地は、伊豆・相模・武蔵の全域と、上総・下総・上野・下野の一部にまで及んでおり、一時は、駿河(するが)・甲斐にも進出するほどの強大な勢力を誇っていた。ところが、翌天正十六年(一五八八)、北条氏が、恭順の意を求めて小田原へ使者を派遣した秀吉の意向を拒絶したことにより、全国統一の大業を果たさんとする秀吉と関東の雄北条氏との間には大きな溝が生じ、急速に対立の度合を深めていった。両者の対決が決定的なものとなると、房総の武将で北条氏の配下にあった千葉氏や原氏、また大網白里地域を支配していた土気(とけ)酒井氏や東金酒井氏などの諸将は、続々と小田原に兵を結集し、籠城して秀吉の来攻に備えた。
 しかし、前章でも見たように天正十八年(一五九〇)七月、強力な秀吉の軍勢の前に北条氏が敗れ去ると、北条氏の傘下(さんか)に組み込まれていた土気・東金の両酒井氏も滅亡してしまった。これに先だち、徹底した物量作戦を展開して小田原を完全に包囲した秀吉は、家臣の浅野長政・木村常陸介、あるいは徳川家康の重臣本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉たちに命じ、房総の諸城を攻略させた。土気城でも領主酒井康治が小田原に籠城している間、土気城を死守していた家臣団が、浅野長政の軍門に降り、城を明け渡すことになった。小田原城に詰めて戦った康治父子三人は、やがて出城を許され、八月十日に小田原において家康に謁見し、二十日ごろに帰国して、一旦旧重臣若菜豊前の所へ入居し、その後、中次(なかつぎ)村(現大網白里町金谷郷)に小庵を結んで、そこを住居と定めた(『房総叢書』)。このように、関東を風靡していた北条氏の滅亡は、戦国期の終焉を意味すると同時に、新たな近世の開幕を告げる象徴的な出来事であった。そして、大網白里町域に居住する人々もまた、土気・東金両酒井氏の滅亡という事態に直面して、その生活基盤を大きく転換させることを余儀なくされるとともに、来たるべき近世の政治的・社会的変化に対していち早く対応することを迫られたのである。
 天正十八年七月、北条氏を破って小田原に入城した秀吉は、家康に小田原落城の論功行賞(ろんこうこうしょう)として関東を与えた。その領域は、上総・武蔵・相模・伊豆の四か国、上野・下総の大部分、そして下野国の一部分にまたがる広大なものであった。しかしながら、三河・遠江(とおとうみ)・駿河・甲斐・信濃の五か国に及ぶ家康の旧領地から、この関東への移封(いほう)は、名目的には恩賞となっていたものの、全国統一の達成を目論(もくろ)む秀吉の軍事的意図がその背景にあったことは否めない。転封(てんぽう)の決定は、すでに同年四月ごろから伝えられていたといわれ、家康の家臣の間には、旧領の五か国を離れ、北条氏の領国に移住することに強い危惧(きぐ)の念を抱く者もいた。しかし、家康は、仮に旧領に百万石を加増されるなら、奥州(おうしゅう)などの僻地に転封されても厭わないとし、ことあれば三万の兵士を国に残し、五万の兵士を率いて上方へ攻めのぼると豪語して、不安がる家臣を宥(なだ)めたという(『徳川実紀』)。家康は、この関東における所領地で二四二万二〇〇〇石を所領し、そのほか駿河・遠江・伊勢・近江国(おうみのくに)などで在京賄料(まかないりょう)として一一万石を宛行(あてが)われた。当然ながら、上総国に位置する大網白里町域も徳川氏の支配するところとなり、以後、徳川氏の家臣団が配置され、徳川氏による統治が全面的に展開していくことになる。