未開の地である関東へ国替えを命じられた家康は、その所領高においても、軍事力においても秀吉の家臣のなかで最大かつ最強の武将となった。ところが、そのころ関東には、常陸国太田に佐竹義重(五三万石)、江戸崎にその一族蘆名(あしな)盛重(四万五〇〇〇石)、安房国館山には里見義康(四万石)、上野国沼田には真田信之(二万七〇〇〇石)らの旧族大名が依然と大きな勢力を保持し、家康の動きに牽制を与えていた。これらの諸将は、秀吉に臣従した大名であったため、家康と摩擦をおこす恐れはなかったとはいうものの、秀吉の家臣という点では家康と対等の立場にあるものであった。したがって、家康が関東での領国支配に確固たる足場を築き、その勢力を全国制圧へ向けて結実させていくには、一日も早く関東に足を踏み入れる必要があった。小田原城攻囲戦に参陣の最中、江戸城を守る北条方の武将川村兵衛大夫を降伏させて同城を掌握すると、直ちに六月末には秀吉からもこの江戸城を与えるとの命令が下された。家康は、秀吉から国替えを命じられると、秀吉の奥州進攻に先立って小田原を出発し、江戸に赴いてしばらく滞在したのち、宇都宮まで進んだ秀吉のあとを追い、再び引き返して八月一日に江戸城へ入城した。八月一日という日は、古来から八朔(はっさく)の祝い日として農民が新穀の贈答を祝い、やがて君臣の間や、幕府と朝廷間の贈答あるいは下賜の儀式の日として重視されてきた日である。この八月一日をわざわざ選んで江戸入城の正式な日としたことから、のちにこの日は「江戸御打入(おんうちい)り」と称され、江戸時代を通じて、毎年八月一日には、大名・旗本が江戸城に登城して、将軍に祝辞を述べる習わしとなった。幕府が、この祝事を「八朔の祝賀」として、とくに重要な年中行事の一つに定めたのも、家康の江戸入城が、徳川氏の全国統一の足掛かりとなったという画期的な意義をもっていたからにほかならない。