(1) 太閤検地の実施

262 ~ 265 / 1367ページ
 天正十八年八月一日の家康の関東入部は、家康にとっては、その後の全国支配の第一歩となったという点で大きな意味をもつが、当時、全国制覇を推し進めていたのは豊臣秀吉であり、家康の国替えも未開地の関東へ転封させることにより、少しでも家康の勢力を封じようとする秀吉の全国統一過程における大名の配置替えの一環としてとられた措置であった。家康が後述のように、関ケ原役後の家臣団の所領再編成、ならびに江戸幕府開設後の諸大名の大掛かりな転封を断行した背景には、秀吉から命じられた関東への国替えという自らの経験があったものと考えられる。ともかく、秀吉は、家康の関東移封に代表されるような味方武将に対する大規模な領地替え、ならびに反抗領主の所領没収を強引に行うとともに、独自の検地を実施して中央集権的統一権力の確立を目指した。秀吉が実施した検地は「太閤検地」といわれ、この「太閤検地」の施行は、全国統一へ向けての最も重要な政策となった。
 「太閤検地」というのは、天正十年(一五八二)に秀吉が山城国(やましろのくに)で検地を行ったのを初発として、没年の慶長三年(一五九八)までの間に実施した検地の総称である。そこで、検地役人の心構えや検地の基準などをまとめた検地条目から、「太閤検地」の内容を要約すると次のようになる。
 
(1) 検地竿は一間六尺三寸(曲尺(かねじゃく))に統一する。
(2) 一反歩を三〇〇歩とし、町反畝歩の単位を採用する。
(3) 桝(ます)は京桝(方五寸・深さ二寸五分)に統一する。
(4) 地目は田・畑・屋敷地とする。
(5) 地位は上・中・下の三段階とし、別に下々地を設ける。
(6) 石盛(こくもり)は上田一石五斗・中田一石三斗・下田一石一斗、上畑一石二斗・中畑一石・下畑八斗、つまり各々二斗下りとし、屋敷地は一石二斗(上畑並)、また下々は見計いとする。
(7) 検地に際して、村と村との境界を明らかにする村切榜示(むらぎりぼうじ)を立てる(=「村切り」を行う)。
 

写真 検地図(安藤博編『徳川幕府県治要略』柏書房刊より転載)
 
 以上が、「太閤検地」の主たる実務基準である。もっとも、検地を行ったのは、秀吉が最初という訳ではなく、中世には「検注(けんちゅう)」、さらには戦国末期には検地という表現もみられるように、以前から検地は行われていた。しかし、それらは、村あるいは農民自らが土地の面積・作人・収穫量などを申告する、いわゆる「指出(さしだ)し」検地であって、領主が実際に測量する検地が開始されたのは、秀吉が実施した「太閤検地」が最初であったといわれている。秀吉の検地も当初は「指出し」検地であったが、天正十年から文禄期にかけて間竿や桝が統一され、一反=三〇〇歩制の畝歩制が導入されるなど、右の七項目に明記されている検地の基準や方法が採用された。
 この検地で最も重要なことは、耕作事実に基づいて年貢の負担者を名請人(なうけにん)として確定し、それを検地帳に登録したことである。つまり、自立過程にある小農民をその自立過程の側面において掌握するとともに、一地一作人の原則により在地の地主と武士の二面性をもった小領主的土豪層を兵農分離政策によって領主か、あるいは農民のいずれかに分離し、そのことによって「作り合い」の否定を実現しようとしたのである。秀吉は、この検地の実施過程で、領主と農民の間に介在する中間層を排除し、現実に検地帳に登録されたものを百姓として領主が一元的に支配する体制を創り出そうと意図したのである。「太閤検地」は、兵農分離政策に基づき、中間層を排除するとともに、その結果として小百姓の自立を促し、領主と農民という一元的な支配体制の確立を志向したところに画期的な意義があった。また、「太閤検地」は、〝天正の石直(こくなお)し〟と称されるように、全耕地を法定の収穫高=石高で表示するため、戦国大名のもとでの給人の給地も石高で表現されることになった。そのことを契機に、本領地と恩給地とからなっていたそれまでの家臣の給地を、給人の恣意が強く働く本領地を没収して、恩給地だけに一元化する領有関係が体系化していった。こうして石高制が体制的に確立するようになると、わが国特有の所領替え、国替えができるような封建的土地所有の集中と統合が実現していった。
 とはいえ、その実現への過程は、決して平坦ではなかった。最も重要な政策である「太閤検地」の実行においてすら、その施行が非常に困難な地域もあった。在地には、いまだ土豪層の勢力が強く残っている地域もあり、当然、「太閤検地」の施行原則と地侍(じざむらい)=国人(こくじん)層の利害とは相反することから、多くの地侍層がこの実施に反発した。そのため「太閤検地」の実施に際しては、秀吉は厳しい態度で臨まなければならなかった。天正十八年、奥州検地に向かう浅野長政に宛てた秀吉の書状に、不退転の態度で検地を断行するように命じた次のような文言がある。それを読み下し文で紹介すると、
 
 国人幷百姓共に合点行候様に能々申聞かせべく候、自然相届かざる覚悟之輩これ有るに於ては、城主にて候はば、其もの城へ追入、各相談、一人も残置かずなてきりに申付けべく候、百姓に至るまて相届かざるに付ては、一郷も二郷も悉なてきり仕るべく候、六十余州堅仰付けらる、出羽奥州迄そさうにはさせらる間敷候、たとへ亡所に成候ても苦しからず候間、其意得べく候、山のおく、海はろかいのつづき候迄、念を入れべき事専一候、自然各退屈者、関白殿御自身御座なられ候ても、仰付けらるべく候

(『大日本古文書』「浅野家文書」)


 
と書かれ、ここでは、検地に反抗する城主があれば、城へ追い入れて一人も残さず切り殺し、百姓に至るまで検地を妨害するものは撫で切りして、そのためにたとえ一郷でも二郷でも亡所(ぼうしょ)になっても構わないとしている。そして、この検地の趣旨は、全国六十余州の「山のおく、海はろかいのつづ」くところまで貫徹することを命じ、それでも実施不可能なら、「関白」=秀吉自らが乗り出すことを記している。検地に対する秀吉の峻烈な決意が、この書状のなかに余すところなく示されている。