(2) 石高制の確立

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 一地一作人の原則に基づく「太閤検地」の実施過程で、農民と武士の二面性をもつ中間層が排除されることにより、兵農分離が推進され、また小百姓の自立が促進された。それと同時に、直接耕作者を検地帳に登録する際、田・畑・屋敷地を一筆ごとに石高で表示したことから、この検地自体が石高制の基礎ともなった。また、この石高制が導入されたことにより、村の規模も石高(生産高)で示されるようになった。つまり、村切りによって確定した村のすべての耕宅地が米の生産高で一律に表示され、それらの合計が村高となり、その村高が年貢・諸役を徴収する賦課基準とされたのである。石高制というのは、検地登録農民の土地の緊縛(きんばく)と移転の禁止を前提に、村単位の石高を基礎として年貢収取を実現し、さらに封建領主の領有高をその石高で表現することによって、一元支配による中央集権的な権力構造を創り出そうとする支配原理のことである。石高制に基づく「太閤検地」の原則は、江戸幕府開設後の徳川政権にも継承されることになるが、この点に関しては、次節でさらに詳しく触れることにし、ここでは、その原則のみを指摘するにとどめよう。