図1 天正18年 関東入国当時の徳川氏上級家臣団配置と他の大名所領地
図1のなかで両総に配置された家臣団を見ると、大多喜には、徳川四天王の一人であり、かつ三人衆の一人でもある重臣本多忠勝(一〇万石)が配置され、下総国矢作(やはぎ)には、鳥居元忠(四万石)が配されている。前者は、安房の里見義康(四万石)に対する軍事的配慮から、また後者は、常陸の佐竹義重(五三万石)の動静を監視し、戦端が開かれれば下総の諸将と呼応して佐竹氏に対峙(たいじ)させる軍事的配慮から、それぞれ配置されたといわれている。また、結城に家康の第二子である結城(ゆうき)秀康(一〇万一〇〇〇石)を配置しているのもとくに注目されるが、このような徳川氏の家臣団の知行割りについては、いつ戦争に突入してもすぐに対応できるような巧みな所領配置がなされていたのである。この知行割りの基本方針は、まず徳川氏の直轄地=蔵入地(くらいれち)を江戸付近に集中し、次に家臣団のうち小知行取り(下級家臣団)を江戸周辺、ほぼ江戸より一夜泊りの範囲内に配し、その外郭に大知行取り(上級家臣団)を配置することであったと指摘されている(北島正元『江戸幕府の権力構造』)。
事実、図1からも窺えるように、上級家臣団が領国の北部辺境地域及び総房の東部地域に集中的に配され、中・下級家臣団は、江戸周辺、とくに武蔵・相模など南部地域に配置されている。この知行割りに特徴的な地域的偏在性は、先にあげた単なる軍事的要因のみによるものではない。旧北条氏時代からかなり権力基盤の確立していた伊豆・相模・武蔵などの地域と、国人領主層が蟠踞(ばんきょ)し、いまだ安定的な領国支配が成しえない上総・下総・上野・下野などの地域との間の、村落の支配、編成の貫徹度の差異に大きく起因するといわれている。