図2 三浦氏系図
古くは源頼朝に仕えた佐原義連の十数代の子孫に当たる佐原十郎正義(作助)の男子作右衛門義成(延兼)は、天正十八年の小田原攻めに供奉(ぐぶ)し、五月二十日の岩槻城攻撃のとき本多忠勝に属して戦ったが、不運にも車橋において戦死した。その長男監物重成(作十郎)は、家康に勤仕(きんし)し、御小姓(こしょう)となって、命により三浦姓に改姓し、天正十八年八月の家康の入国後、父の戦功によって佐倉領において一万石を与えられた。この重成には、義勝(左近)と延次(三右衛門)の二人の弟がおり、義勝は、本多忠勝に寄寓し、のち阿部正次の家臣となった。他方、延次は、佐原を称してのちのちまで続いた。また、この義勝と延次の間にもう一人の男子が存在した模様であるが、その消息については全く判然としない。
さて、佐倉城主となって町域の村々を所領した三浦重成は、はじめ実子がなかったため、阿部正次の二男重次(作十郎)を養子に貰い入籍した。しかし、やがて実子重勝(右馬助)が生まれたのと、養子重次の実家の兄阿部正澄が父正次に先だち卒したことから、重次は寛永五年(一六二八)に実家に戻り、父正次の家を襲封した。
これより先、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の役後、三浦監物重成は、下総佐倉から一万三〇〇〇石に加増されて近江国に移封されたが(中村孝也前掲書)、在地の史料の内容や残存状況から判断して、移封後も町域との関わりは続いたと考えられる。ところで、実子重勝が、父重成の遺領を継いだ年代がいつなのか、正確に知ることはできない。しかしながら、重勝は、父を遺襲したのち寛永元年(一六二四)十二月に従位下に叙したとあることから、寛永元年よりも前にすでに遺領を継承していたことは間違いない。つまり、慶長末年ないしは元和年間には、重成は卒していたことになり、元和元年(一六一五)の大坂の陣のときに病気にかかったと記されていることから、それが原因で死去したのかも知れない。したがって、幕府から邪教として禁じられていた日蓮宗不受不施(ふじゅふせ)の教義を布教し続けた廉により、寛永四年(一六二七)に日耀らが迫害をうけ、そのとき、日経(にっきょう)上人が慶長二年(一五九七)に建立した方墳寺(大網)も焼き払われたと伝承されている方墳寺一件について、その弾圧のために手を下したのは、これまで単に三浦監物とだけしか分かっていなかったが、その年度が寛永四年であったということから、重成ではなく、実子重勝であったことが明らかとなる。
重成には重勝のほか、もう一人男子重政(平十郎)が存在したが、病弱のため当初は仕官せず、のち阿部正次の家臣となって代々続いた。ところが、本家筋の重勝には嗣子がなく、重勝が二十七歳の若さで寛永八年(一六三一)に没すると、家も同時に絶家となってしまった。三浦氏の家系に謎の部分が多いのも、実は家が廃絶になったことに起因するのである。三浦氏にゆかりが深い蓮照寺(大網)には、重勝の三・六三メートルもの高い供養塔が建てられており、それには、「前三浦監物重勝 真浄院殿日勝大居士 寛永八年八月二十五日」と刻ざまれ、往昔の三浦氏を偲んでいる。
また左側の供養塔は、三浦氏が、三浦一族の日寛上人を供養して建立したもので、塔の高さは、重勝のものよりやや小さく二・六五メートルである。その碑には、「連登院日寛 元和三年 三浦監物」と刻銘され、重勝の供養塔より古く、二つの供養塔は寄り添うように並んで建っている。なお、日寛の供養塔を建立したのがどちらの監物であるか、重成の没年が判明しないため、確定することはできない。
写真 三浦監物の供養塔