秀吉の小田原攻めの際、北条方に与(くみ)して籠城していた土気酒井氏五代康治とその子重治・直治の三人が、出城して帰国したのち、一時的に旧重臣若菜豊前の許に身を寄せ、その後さらに中次村に小庵を結んで移り住んだことは、先述した通りである。そして、家康の関東入国後の縄入れ(検地)により、領内に一〇〇石の領地を宛行われたものの、やがて牢浪の身となり、小田原へ赴いて、当時の城主大久保忠隣の配下に属することになった。しかし、康治は、慶長十二年(一六〇七)十一月三日に小田原で「石淋」という病のため落命し、ここに初代酒井定隆より、この康治まで五代約百年続いた土気酒井氏は、名実ともに滅んでしまった。
あとに残された重治と直治は、三浦監物重成の取り成しにより、家康に召し出されて、それぞれ知行地を宛行われた。兄重治には、武蔵国小曽根にて九五〇石が、また弟直治には、上総国粟生野村・日当村・千沢村などにて一〇〇〇石が与えられた。ところが、弟直治は、伏見城の番頭を勤めていたとき、同隊の士五味金十郎と口論して腹を突き刺され、直治も短刀で金十郎を刺して、両名とも命を失ってしまった。何とか家名断絶は避けることができ、直治の子源五郎は、幼年のため鳥居左京亮、さらには、松本大膳太夫忠重に預けられ、酒井弥惣左衛門と称して二〇〇俵の扶持米取(ふちまいど)りとなる。一方、兄の重治は、のち大番となり、元和元年の大坂の陣には阿部正次の組に属して参戦し、戦功をあげた。その後、両家は小旗本の身分ながらのちのちまで続いた(「土気城伝記」十枝澄子家文書、天保十三年「土気長嶺家伝調書集」板倉俊夫家文書ほか)。
土気酒井氏の旧重臣富田氏・板倉氏・若菜氏たちの動向や、その去就については、史料的な制約から詳細に知りえないが、富田氏は、酒井氏が家康の家臣として取り立てられるよう三浦監物重成に働きかけ、終身重治に侍して旧主君の身辺を護衛したといわれる(「土気城跡」)。そして、最終的には、この富田氏をはじめ、他の旧臣層も土着して農耕に従事したものと推測され、そのうち板倉氏については、次節でさらに詳しく記述することにする。
戦国期、町域の清名幸谷(せいなこうや)・二ノ袋・今泉・四天木(してぎ)付近を支配していた東金酒井氏は、五代政辰(まさとき)が土気城主五代康治と同様、小田原城に籠城し、北条氏が滅亡すると命運をともにした。小田原出城後、帰国はしたものの東金城を追われて、上総国幸谷(現東金市北之幸谷)に隠れ住み、慶長八年(一六〇三)に没した。「東金酒井氏譜」(『東金市史』史料篇二)によれば、政辰の子は、政成・正吉・政次と三人おり、長子政成は、家康に仕えて一〇〇〇石を与えられている。政成には嗣子がないため、永井実久の二子義実を養って長女に娶らせ、その後も、宗家が養子によって辛じて家名を保つなど、東金酒井氏の系譜をひく酒井氏の末裔の動静は決して平穏ではなかった。