中世の豪族千葉氏の傍系である原一族が小西城を構えて居領したことは、すでに前章で述べた通りである。小西原氏の近世期における動向については、必ずしも明確ではなく、わずかにその家臣団の本拠とした地域が知られるばかりである。
小西村の宍倉家は、木原村(現山武町)の宍倉家三代胤昌の男子のうち、三男の胤忠が、文明十五年(一四八三)に分家して小西へ土着した家筋であると伝えられている(『山武町史』史料集近世編)。木原村の宍倉家は、戦国末期に「臼井衆」として原氏に付属したこともあって、原氏との結びつきはかなり強かったと思われ、当然、分家である小西村の宍倉家も小西原氏と何らかの関わりがあったものと予測される。また、千葉氏・原氏の菩提寺である本土寺(現松戸市)の「本土寺過去帳」(『千葉県史料』中世編)には、小西にゆかりのある人名が、清名幸谷・養安寺をはるかに上回る三〇〇人余も記帳されており、そのことは、中世末期から近世初頭にかけて小西原氏に属する土豪層や家臣層が小西に多数住んでいたことを想起させるのである。これら旧臣層のうち、ある者は牢浪して仕官の道を志し、また多くの者は近在に土着して農耕に従事することになる。