(1) 関ケ原役後の領知の編成

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 慶長三年(一五九八)八月十八日、豊臣秀吉は、世子秀頼のことを五大老(ごたいろう)・五奉行(ごぶぎょう)に託しながら、伏見城において六十三歳の生涯を閉じた。この秀吉の死は、文禄元年(一五九二)と慶長二年(一五九七)の二度にわたる朝鮮出兵の失敗で動揺していた豊臣政権に致命的な打撃を与えた。統一戦争からこの朝鮮出兵へと連なる軍事動員によって統帥(とうすい)されていた諸大名を豊臣政権の下に繫ぎ留めておくことは、もはや不可能な状態であった。一方、朝鮮出兵に際し、肥前国名護屋(なごや)(佐賀県)まで赴いたが、渡海はせず、専ら領国経営の強化に努めていた家康は、五大老の筆頭という地位を背景に、諸大名の間に徐々に勢力を伸ばしていった。そして、次第にそれまでの五大老による合議制を改め、家康が豊臣政権の代表者であるという立場を強烈に印象づけていったため、秀吉の側近で、しかも五奉行の中心として吏僚派の諸大名をまとめていた石田三成との間に対立を深めた。越後より会津へ移封された五大老の一人である上杉景勝に上洛(じょうらく)を促しても応じなかったことを契機に、慶長五年(一六〇〇)七月二日、家康は、上杉氏討伐の軍令を発し、徳川氏に反抗する勢力を一掃する天下取りの決戦を開始した。他方、上杉氏に呼応した石田三成らは、これに対抗して直ちに家康打倒の兵を挙げ、ここに天下分け目といわれる関ケ原の一戦に向けての火蓋が切って落された。
 周知のように、関ケ原の役は、慶長五年九月十五日の一日の決戦で勝敗が決し、東軍=家康方の圧勝のもとに終った。関ケ原における東軍の完勝は、徳川氏の覇権を事実上決定づけ、その後三百年にも及ぶ徳川政権の存続を不動のものにしたという点で重要な意味をもつ。
 家康は、この合戦の戦後処理の一環として、西軍に加担した諸大名の大規模な改易(かいえき)・減封(げんぽう)・転封を断行し、まず石田三成・小西行長・安国寺恵瓊など有力な大名八七家を取り潰して、四一四万石余にも達する所領を没収した。また、毛利輝元・上杉景勝・佐竹義宣の所領のうち二〇七万石余を減封した上で転封を命じ、これら没収地合計六〇〇万石余のうち、その四分の三の所領に東軍の諸大名を論功行賞として加封し、その転封後の諸大名の跡地と没収地の四分の一、さらに従来の関東領国を合わせた新領国を、徳川氏の直轄地=蔵入地と徳川一門・譜代(ふだい)家臣に再び分与した。その場合、家康は、本拠地である関東と、これまでの政治・経済の中心である京・大坂の地域の処置に特別留意し、その地を直轄地と一門・譜代家臣に配分することによって中枢地域の掌握に努めた。かつて秀吉により東海地方に徳川氏の動きを牽制する目的で配置されていた諸大名は、関ケ原の役ではいずれも家康に味方したため、家康は、その戦功として所領を加増し、それらの大名を主に中国・四国・九州などの遠国へ移封させ、その跡地に一門や譜代家臣を配置した。また一門や上層の譜代家臣は、一万石以上を与えられて独立の大名となったり、新たに加増されて大名に取り立てられたりした。そして、これらの譜代大名が、今までの徳川氏の非領国であった地域に配置されることによって、徳川氏の全国制覇の足固めはできあがった(北島正元『江戸幕府の権力構造』 藤野保『新訂幕藩体制史の研究』)。
 上総国では、慶長三年段階で一万石以上を領していた内藤政長(佐貫)・岡部長盛(山崎)の両氏は、旧来のまま同じ地に就封したが、本多忠勝(大多喜→伊勢桑名一〇万石)、石川康通(鳴戸→美濃大垣五万石)、大須賀忠政(久留里→遠江横須賀六万石)は、それぞれ転封となった。そして、転封後の跡地には、大多喜に本多忠朝(本多忠勝の次男、のち大坂夏の陣において戦死)が、また久留里に土屋忠直が、それぞれ配置された。忠朝は、新たに独立の譜代大名となった一人である。
 さらに、下総国の場合でも、武田信吉(佐倉→常陸水戸一五万石)をはじめ七氏が移封され、佐倉を拠点として大網・本納などで一万石を所領していた三浦監物重成も、近江国のうちで一万三〇〇〇石に加増されて転封となった。しかし、三浦氏については、前節で指摘したように、二代重勝による方墳寺焼き払い一件が寛永四年(一六二七)に発生しているなど、その後も町域との支配関係は続いたものと思われる。いずれにしても、両総の所領配置は、関ケ原の役後、徳川氏の巧みな領国支配政策によって再編されることになり、上総国山辺郡と一部長柄郡(清水村のみ)に位置する大網白里地域の所領配置も当然、この配置策によって大きな影響をうけることになる。