関ケ原の役後、家康は、大坂城に留まって諸大名を統制するかたわら、その戦後処理として関東・東海に徳川一門・譜代家臣を配し、そこを直接の政治・経済の中心地と定めるなど、江戸幕府開設へ向けての施策を次々と打ち出していった。慶長八年(一六〇三)二月に征夷大将軍に就任すると同時に江戸幕府を開いた家康は、将軍就職から退職までの二年間に、江戸へ帰ったのは二回だけで、その期間もわずか八か月に過ぎず、あとは伏見城で一切の政務を執った。これは、幕府を開設したとはいえ、いまだ徳川氏を倒そうと機をうかがう諸大名や諸士は多く、大坂の豊臣氏や島津氏・毛利氏などの西国大名、あるいは上方の公家や寺社に代表される反抗勢力に常時備える必要があったからにほかならない。事実、豊臣氏による大坂冬の陣(慶長十九年)と夏の陣(翌元和元年)が起こり、この二度の戦に勝利を収めた徳川氏は、豊臣氏を単なる一大名に降格させてしまうなど、その幕府権力をより一層揺ぎないものとした。そして、幕府は、大坂城陥落後まもなく一国一城令を発布して諸大名の軍事力を制限し、そのあと「武家諸法度(ぶけしょはっと)」、「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」、「諸宗諸本山諸法度」を矢継ぎばやに定めて、大名は勿論、天皇・公家・寺社をも規制したのである。これより先、慶長十年(一六〇五)四月に将軍職を世子秀忠に譲った家康は、二年後に駿府(すんぷ)城へ移って、江戸の将軍政治を補完する大御所(おおごしょ)政治を展開しており、これが、諸法令発布にみられる徳川氏の権力基盤を支える上で重要な施策となったことは間違いない。
豊臣氏が滅亡した元和二年(一六一六)に家康が病死すると、その跡を受け継いだ秀忠は、弟の松平忠輝をはじめ一門・外様など有力な大名を含む三七家を取り潰した。さらに三代将軍家光も、弟の徳川忠長をはじめ四四家を改易するなど、幕府権力の確立に伴い、秀忠・家光とも一門・譜代衆の大名取り立てや加増、直轄地の拡大を行う一方で、容赦ない改易を断行して徳川政権の安定、強化に努めた。このような初期の徳川政権を支える関東領国の支配は、主に一門や旗本によって行われ、大網白里地域においても、譜代大名や多数の旗本によって所領支配されることになった。