砂田(いさごだ)村

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 寛文八年『上総下総御鷹場五合組合之帳』(松尾町 北田昌一家文書)によれば、当時、砂田村は旗本三淵(みつぶち)又四郎の知行地となっている。村高は二〇〇石で、『寛政重修諸家譜』では、それまで一〇〇〇石を知行していた又四郎(勝正)の父藤利(ふじとし)が、寛永十年に山辺郡で二〇〇石を加増されていることから、この二〇〇石の加増分が砂田村での知行高になったものと推測される。その後、寛政五年(一七九三)の時点では、村高二〇六石余を代官内方鉄五郎と旗本阿部八之丞とが分割支配し、幕末段階では、代官支配高三六石六斗三升二合、阿部新太郎知行高一七六石四斗六升六合となり、村高にわずかの増加がみられるものの、領主支配には全く変化がないまま明治維新を迎えることになる。旗本阿部氏は、養安寺村・北吉田村を分割支配した旗本阿部四郎兵衛の分家に当たる家筋で、寛永八年に重朝(しげとも)(八之丞)が兄重信(しげのぶ)より上総国山辺・長柄、常陸国新治三郡で分地をうけ、さらにその後重旧(しげひさ)の代に加増され、元禄十年(一六九七)時点では、一〇〇〇石を知行する旗本となり、代々小普請(こぶしん)、御書院番、小姓組などを勤めた。
 砂田村は、明治十八年(一八八五)に編さんされた「砂田村誌」(駒込 布施久通家文書)のなかで、同村の地形について「仝村ノ形チ宛モ山岳形ノ如シ」と記述されているように、平野部の多い町域にあって、比較的山勝ちな村であった。そのため、「田圃・山林相交リ、凹キ所ニ田地アリ」という状態で、田地の面積がかなり制約された土地柄であった。しかし、周辺の沢より清水が湧いて、下流の萱野村田地を経て小中村に注ぐ「小中大滝川」の水源を抱えていたため、水利条件は良好であった。また地質は、「東北村落部ハ概ネ砂土ニシテ、其色薄黒、其質稍美ナリ、稲・麦・大豆・草綿等ヲ栽培ス、及枇杷ノ産物アリ、古ヨリ砂田枇杷ノ名勝ナリ、西南部其色薄赫色、其質稍美、稲・小麦・菜種ニ可ナリ、最桑・茶ニ適ス」とあり、砂地のために地味はすぐれているとはいえないが、果樹や桑・茶などの特産物の栽培には適していたようである。また、古くから「砂田枇杷」の生産地として有名であったことは注目される。