萱野村

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 領主の変遷では、寛文八年時点で代官関口作左衛門による村高四〇〇石の一給村落であった。関口作左衛門は、総州代官として寛文・延宝期には、上総・下総にまたがって一七~一八万石を支配した代官であった。ところが、延宝五年(一六七七)七月二十六日に贜罪によって子息二人とともに、幕府から切腹を命じられて果てている。関口氏は、そのころ小西村に陣屋をおいて執務したことから、本町との関係は非常に深く、そのことは、小西の正法寺に父子三人の墓が建てられていることからも窺える(川村優「総州代官関口作左衛門処罰の背景――延宝五年親子三人切腹の経緯について――」『房総の郷土史』第一二号所収)。
 寛政五年には、服部市郎右衛門と川井次郎兵衛との二旗本による村高三九一石余の相給村落となっており、この二旗本による知行は幕末まで変わらなかった。幕末期の知行高は、服部氏が三四八石二斗七合五勺、川井氏が四三石三斗一升一合五勺である。ところで服部氏は、上総国山辺・長柄、下総国海上三郡で一〇〇〇石を知行し、寛政五年時の保春(やすはる)の代には大番となり、その子保教(やすのり)も大番に列したが、天明七年(一七八七)に父に先だち死去したため、保春の孫保紹(やすつぐ)が遺領を継いだ。また、川井氏は、久重(ひさしげ)の代の元禄十年に蔵米取りから上総国山辺・長柄・武射三郡で三三〇石を支配する知行取りへと改められ、全部で五三〇石を知行する旗本となった。久重から久守と続き久敬(ひさたか)の代に至って、明和二年(一七六五)に勘定吟味役となり、久能山御宮の普請を監督して布衣の着用を許され、同三年には美濃国そのほかの河川の普請に携って黄金十枚を下賜されるなど出仕に励み、同八年には勘定奉行にまで登用された。
 明治二年(一八六九)の「村高明細帳」(萱野 横田栄彦家文書)によると、村高三九一石三斗三升九合の田反別は一七町八反余、畑反別は一三町三反余で、わずかに田方反別の比率が高い田畑構成となっている。