寛文八年の神房村は、山田太郎左衛門二〇〇石、本多四郎左衛門二〇〇石と二人の旗本が分給支配する村高四〇〇石の村であった。山田氏は、初代直利の代の慶長期に武蔵国比企(ひき)郡で一五〇石、のち上総国山辺郡にて二〇〇石を加増され、さらに寛永十年に国郡名は不明ながら二〇〇石を与えられて、合計五五〇石を知行した。寛永十年の二〇〇石の加恩のとき、神房村の二〇〇石が同氏の知行地に組み込まれた。嗣子直久の代になり、寛永十六年(一六三九)には知行高五五〇石のうち三五〇石を譲りうけ、寛文九年に蔵米二〇〇俵が加米された。さらに、延宝元年(一六七三)に千代姫(家光女)の用人となったとき、下野国にて一〇〇〇石を加えられたが、同五年に辞職したとき、その加増分の一〇〇〇石は返上した。三代直治のとき、元禄十年に蔵米を改められて、下総国で二〇〇石を与えられ、結局、初代直利の知行高と同じ五五〇石を支配することになった。
一方、本多氏は、早くから家康に仕え、二代貞近は、天正十八年の小田原攻めのときにも供奉し、七代貞次の代に至って、寛永十一年に五〇〇石を知行し、大番に列している。ところが、その後の当主の名前すら分からず、「以下系嗣を詳にせず」と注記があるように、本多氏に関する足跡はそこで切れてしまい、当然ながら、神房村との支配関係も終り、寛政五年段階では、本多氏に代わって内方鉄五郎が代官領として支配している。そして、最終的には山田氏知行地、代官領とも所領替えされ、松平内蔵之助と肥田潤之助の二旗本による分給支配となる。
神房村は、北西から南東にかけて丘陵が続き、「地勢恰モ蜻蛉ノ形ノ如シ、中間山脈起伏シ、以東概ネ平坦ニシテ湛望遙カ房州ヨリ奥州エノ街道ヲ望ム」(「神房村誌」前出布施家文書)ような地形を擁す。また、地質は、「俗ニ砂目ト称スルモノニシテ、其色蛋白色、其質尤モ美シテ、稲・麦・大豆・草綿等ニ適当ナリ」とあるように、砂質土で余り良質な土壌ではなかったが、稲・麦など主雑穀類の生産には適していた。