小中村・平沢村 門谷(かどのさく)村・宮崎村

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 この四か村は、近世初期にはそれぞれが分村されておらず、分村して四か村になった年代が寛永年中であったことは、『上総国町村誌』(下巻)のなかで指摘されている。
 これらの村々では、慶長十六年(一六一一)七月二十一日から二十七日までの九日間をかけて検地が行われ、その残存する検地帳には、右の四か村の名が大字としてあらわれており、そのことからも、当時四つの大字をまとめた一村として把握されていたことが明らかとなる。この検地を実施した検地役人は、経 兵右衛門・三 助左衛門の二人を筆頭とする二組の検地役人で、彼らは「三浦監物様御領分之節、御役人之由申伝ニ御座候」(小中 吉田公勇家文書)とあることから、この慶長検地が三浦監物の検地であったことが知られる。
 寛文八年には、野村彦太夫代官領五〇〇石、旗本逸見八右衛門二〇〇石、同原田四郎右衛門二〇〇石、同千本兵右衛門二〇〇石、大名松平和泉守(佐倉城主)六〇石という分給関係となっている。寛文八年時点でも完全に分村していないこの四か村は、元禄十五年の「元禄郷帳」では、表1からも明らかなようにそれぞれが一か村として分立しており、寛文期から元禄期にかけて四か村に分村したことが分かる。また、この「元禄郷帳」と天保五年(一八三四)の「天保郷帳」のいずれにも、平沢村・門谷村・宮崎村の右肩に「小中村枝郷」と注記されていることから判断して、分村の際、小中村が親村となって、他の三か村がそれぞれ分村したものと思われる。
 最後に、田畑の割合を門谷村のうち代官領一二〇石余の分でみておくと、石高では田高八三石余、畑高三七石余と田高の方がほぼ二倍の数値を示すが、面積では、田四町四反余、畑四町一反余とほとんど同じ面積であった。