永田区有文書によれば、永田村では、慶長十六年七月十七日から二十日にかけて検地が行われ、少し間隔をおいて八月六日に苗代分のみの検地が実施され、その検地役人は、先の分村前の小中・平沢・門谷・宮崎村を検地した三浦監物の家臣と同じ役人である。小中村などは、同年七月二十一日から検地に着手しており、したがって、永田村の検地が終了すると、その翌日から小中村などの検地に取りかかったことになる。
寛文八年、同村は、本多四郎左衛門六〇〇石、石来(いしらい)織部五〇〇石、大導寺孫太郎四〇〇石の三旗本による村高一五〇〇石の大村であった。本多氏については、神房村ですでに触れているので、記述の重複は避ける。石来氏は、三代吉加(よしかず)(織部)が寛永四年に御家人となり、御小姓組の番士となって蔵米三〇〇俵を支給され、同十年に知行高二〇〇石の加増をうけて、そのときに先の蔵米も知行取りに改められ、全部で五〇〇石を知行する旗本となった。他方、大導寺氏は、初代某が北条旱雲に勤仕し、二代某が北条氏綱、さらに三代政重が北条氏康・氏政・氏直、四代直次も氏直に仕えるなど、一貫して北条氏の家臣として戦乱のなかをくぐり抜けてきた。そして、四代直次の代に、天正十八年の小田原落城とともに家康の処士となり、そのとき姓名を遠山長右衛門と改姓した。慶長五年の岐阜城攻略のときは、福島正則の手勢にあって首級をえ、さらに牧田の辺において大垣より関ケ原に向かう敵と戦い、その戦功によって正則から所領を加えられた。その後、寛永十一年に御家人となり、甲斐国で一〇〇〇石の所領を与えられ、その日初めて家光に謁見し、それ以来大導寺の家号に復した。さらに、直次から直数、直富(孫太郎)と続き、直富のとき、寛文元年にそれまでの甲斐国の所領を上総国山辺・長柄・武射、上野国新田四郡に移され、同六年また上野国の所領を分割して武蔵国大里郡に移された。そして、延宝二年(一六七四)に御書院の番士となり、直富はそのほかにも様々な要職に就き、なかでも御書院番を長く勤めた。
永田村は、「元禄の地方直し」を経て、寛政五年時点には、代官領、清水領知と六人の旗本が支配する八給の村となる。なお、清水領知というのは、十代将軍家治の弟(つまり八代将軍吉宗の孫)による分家のことをいい、上総国一帯にその所領地をもっていた。六人の旗本については、大導寺氏は以前からの知行地がそのまま継続したものであり、伴氏・小栗氏・阿部氏は、元禄十年に蔵米二〇〇俵を知行取りに改められたもので、また河内氏は延宝八年に、神谷氏は宝永六年にそれぞれ加増をうけたときに永田村を知行するようになった。この分給支配は、清水領知が代官領に包摂されるほかは、全く変化することなく明治維新まで続く。
天保七年(一八三六)と同九年の区有文書から、村高一五八九石三斗四升九合、家数一五九戸、人数八一〇人の内訳を示すと、清水領知二八一石七斗二升九勺・二六戸・一三七人、大導寺氏四〇〇石・四〇戸・二〇〇人、伴氏三〇九石四斗五升五合三勺・三三戸・一六六人、阿部氏一三石六斗八升八合・一戸・三人、小栗氏二六六石九升九合八勺・二一戸・一三三人、神谷氏一〇四石八升四合・一二戸・五〇人、河内氏一七七石四斗三升五合・二四戸・一二一人、代官支配地三六石八斗六升六合・無民家となる。