寛永六年に分郷が行われ、旗本河野氏、同神谷氏の知行するところとなり、慶安四年(一六五一)十月に、さらに内藤氏、岡部氏の二旗本が新たに加わり、この四旗本による分割支配が近世を通じて行われた。寛文八年の支配状況をみると、岡部小右衛門二六九石七斗、河野権右衛門二五二石、内藤八之丞一四三石、神谷与七郎七〇石となり、神谷氏を除いて知行高の増加がわずかに認められるものの、この四氏が全然変わらずに幕末まで続いたという非常に珍らしい相給形態をもつ村である。
岡部氏の家系は古くまで遡ることができ、源頼朝、足利尊氏、上杉氏、北条氏家臣松田康秀などの諸武将に歴仕し、北条氏滅亡後は、十八代吉正が家康に召し上げられて二〇〇石を宛行われた。さらに、寛永期に加増があって、寛永十年時には、一五〇〇石余を知行する旗本までに成長を遂げた。十九代吉次(小右衛門)がまた五〇〇石の加増をうけて二〇〇〇石を知行し、その後知行地の移動はあっても、ずっと二〇〇〇石を知行した。
河野氏は、初代通重の代に一五〇〇石、二代通成の代には二二〇〇石を知行する旗本であったが、初代通重は、御小姓就任時の慶長年中に喧嘩によって殺傷事件を起こしたため蟄居を命ぜられ、大坂の陣の戦功により一旦許されたものの、正保四年(一六四七)に再び宅地に店を設けて商売をした廉で閉門を申し付けられた。二代通成も貞享四年(一六八七)八月に大目付に昇進したのも束の間、その年の十二月に職務に不向きとの理由で出仕を止められるなど、極めて浮沈の激しい家であった。
内藤氏は、内藤石見守信広の五男信通(八之丞)が分家して興した旗本で、慶安三年に父の遺領のうち、上総国山辺・長柄・市原の三郡にて一〇〇〇石を分け与えられ、駒込村の知行地もその分地のなかに含まれていたものである。
神谷氏は、二代清次が天正十九年の陸奥国九戸の陣のとき、本多正純に従軍して岩手沢に至り、慶長五年の関ケ原の戦でも正純に属し、元和元年の大坂夏の陣のときは酒井忠利に属して本城の留守を守るなど、家康の諸重臣に仕えた。二代清正も小田原攻めに参戦した功績で二〇〇石を宛行われ、九戸の陣のときも父清次とともに岩手沢まで扈従した。無論、大坂の両陣にも参加し、その軍功により寛永十年までに一五〇〇石を知行するまでになった。そして、三代清房が五〇〇石加増されて都合二〇〇〇石の旗本となる。
次に駒込村の村柄について概述すると、その地形は、山間部と平野部が村の中央で分かれ、西南から西北にかけて小高い山が連なり、中央より以東はすべて平坦となり、田畑が広がって九十九里平野へと開けていく。地質的には、中央より以南は薄柑子色で、麦・大豆・烟草・綿などの農作物に適し、以東は黒色で、稲・麦・大豆・草綿に適応した土質である(「駒込村誌」前出布施家文書)。
村のなかには、大網宿より房総街道が、駒込村字上二丁五反に入るとすぐに西北へ千葉道の起点となり、東に九十九里道を分けて、永田村まで長さ五〇〇間、幅四間の大道となって貫通していた。また水利の面では、新川が西北の池田村より北境を流れて経田村に入る長さ一二〇〇間余、深さ七尺、幅二間の川が貫流していたにもかかわらず、川幅が狭いため、降雨がなければ流れが止まり、用水時に不便を期たすこともあった。