寛文八年の赤荻村一五七石の分給状況をみると、岡部氏六〇石、河野氏六七石、内藤氏三〇石となり、この三旗本は、いずれも駒込村を知行する旗本と全く同じである。寛政五年段階では、この三旗本のほかに代官支配地が増えて四給となり、さらに明治元年には、その代官領に代わって鶴牧藩が代官領分をそのまま所領する。
この代官領は、享保年中に駒込村の飛地星谷野のうち赤荻と称する原野を開墾して誕生した新田で、同二十年(一七三五)に赤荻新田として赤荻村に高入れされたものである。そして、天保十四年(一八四三)に、この代官領二一石二斗一升七合は、譜代大名水野氏(鶴牧城主)に領地替えが行われた。
この水野氏の祖忠増は、万治二(一六五九)年、兄忠職(信濃松本城主七万石)から信濃国筑摩郡で新墾田五〇〇〇石を分封された。その後、忠位(ただたか)、忠定、忠見(ただちか)、忠韶(ただてる)と続き、忠位の代に一万二〇〇〇石を領する大名に昇格し、忠定治下の享保十年に信濃国の領地を転じて安房・上総・丹波三国五郡に所替えされ、その折、安房郡北条に居を構えた。そして、享保二十年には丹波国で三〇〇〇石を加増されて一万五〇〇〇石を領し、この所領高は、明治四年の廃藩置県まで変わらなかった。さらに忠韶の代に至り、文政十年(一八二七)に安房北条より、鶴牧(市原市)に陣屋を移し、忠韶は在封一年後の翌十一年五月に死去したため、その遺領は養子忠実が襲封した。忠実は、文政十二年に奏者番、天保十年から同十二年まで西の丸の若年寄として幕閣の中枢で活躍したが、同年三月に卒し、遺領は二男忠順が相続した。赤荻村の代官領が水野氏の所領に代わったのは、天保十四年に安房の領地が、上総・丹波の二国に所替えされたときであったと思われる。