経田村は、古くは経典村、あるいは京田村とも書かれ、元禄年中から経田村となったことが、天正十九年の水帳の写(経田 今井良男家文書)のなかに記されている。同村は、同年七月十八、十九日の両日を要して実施された検地によって村が確定した。寛文八年には、旗本酒井作右衛門一四六石の一給支配で、寛政五年時点では、内方鉄五郎代官領と旗本真田鉄蔵知行所が新たに加わっており、酒井氏とともに三給支配となる。酒井氏の支配は幕末まで続き、その知行高もほとんど変わらないことから、新たな代官領および真田氏知行所は、新田開発部分がそれぞれの所領地に組み込まれたものと推測される。
酒井氏は、三河武士を出自とし、三代重勝が家康の関東入部と同時に、武蔵・上総国山辺郡で二〇〇〇石を宛行われ、のち近江国において一〇〇〇石を加増された。この重勝は、かなり鎗術に長けた武将とみえ、伏見城において諸将に混じって家康の前に伺侯したとき、家康から長短いずれの鎗が有利であるか尋ねられ、長い方が勝利をうるものであると論じて、列座の諸士にその論拠をとうとうと説明して感心させたり、それより先、三河国において所々の戦に一番鎗を四度もあげたことから、「四度鎗作右衛門」と人々にはやされたことなど、鎗術にまつわるエピソードが語り継がれている。重勝の子重正は、家督を相続しないまま父親より先に死去し、そのため重勝の孫重之が八歳のとき遺領を継いだ。しかし、幼少という理由から、近江国の所領を没収され、武蔵・上総両国の二〇〇〇石だけを襲封した。また慶安四年に従五位下飛驒守に叙任し、その年一〇〇〇俵の蔵米が加恩された。さらに重頼、重春と続き、重春が延宝二年に遺領を継いだとき、弟重賢(しげかた)に蔵米五〇〇俵を分かち、元禄十年には残りの蔵米五〇〇俵を五〇〇石の知行高に改められ、すべてで二五〇〇石を知行した。
真田氏は、武田氏、北条氏、徳川氏と時々の有力な戦国大名に従った信昌を祖とする三代幸信が遺領を継いだとき、弟幸吉へ五〇〇石を上総国山辺・長柄、上野国碓氷三郡で分与した。その弟の家筋に当たる旗本が、経田村を知行した真田氏である。