明治元年に書き出されている善勝寺(土気)領を除き、近世を通じて一給支配が続いた村である。寛文八年時点では、代官野村彦太夫が旗本として自己の知行高三〇〇石を支配し、同氏の知行はその後もずっと続き、明治元年には野村錠之助が三三二石余を知行している。
池田村には、秀忠の時代に「御腰掛ケ御茶屋」といわれる茶屋が設けられた。これは将軍が東金周辺の鷹場で鷹狩りをするとき休息のために立寄った休憩所と伝えられている。金谷区有文書にも「台徳院様(秀忠)御代、池田村地頭野村彦太夫先祖九拾年程以前東金御殿奉行致候節、池田村山畑之内ニ御腰掛ケ御茶屋ヲ立、御茶指上候」とあり、同地に将軍用の休息所が開設されていたことが確認され、その跡地には現在でも徳川氏を崇めて権現大明神が祀られている。