南玉村も池田村と同様、幕末期に善勝寺領一一石余が書き上げられる以外は、旗本による一給支配の村であった。とはいえ、領主の交替は目まぐるしく、寛文八年時では小島氏、寛政五年時では神尾氏、そして最終的には松平氏が知行している。
二度にわたる大坂の陣に参戦した初代小島正吉は、凱旋ののち蔵米二〇〇俵、続いてすぐに一〇〇俵を加増され、さらに寛永十年に二〇〇石の知行高を加えられ、そのときに蔵米の分も知行高に改められて、上総国山辺郡で五〇〇石を知行することになった。その五〇〇石が、南玉村の知行高五〇〇石であり、したがって、小島氏の知行地はすべて南玉村にあったことになる。二代正朗(まさあきら)は、寛文六年から伊予国西条の代官を勤めた。同十年には代官を解かれて元の大番に戻ったが、短期間ながら代官という重責を勤めたことは注目に値する。南玉村との支配関係が切れたのは、四代正宣の代の享保十一年に知行高を蔵米に改められたからである。
神尾氏については、元文二年(一七三七)から幕府勘定奉行に就任して年貢増徴政策を強力に推し進めた神尾若狭守春央(はるひで)がつとに有名で、南玉村を知行した神尾氏というのは、その勘定奉行神尾春央にほかならない。六代春政の養子として入籍した春央は、元禄十四年に遺跡の蔵米二〇〇俵を継ぐと、次第に頭角をあらわして、御腰物方、桐間番士、御腰物方、さらに御細工頭、御賄頭、御納戸頭に転じるなど幕府要職を歴任しながら、元文元年に御勘定吟味役となり、翌二年にはついに勘定奉行に栄進し辣腕を奮った。と同時に、知行高も宝暦二年(一七五二)までに一五〇〇石を知行するまでになった。
松平氏に関しては未解明な部分が多く、その説明を加えることができない。