明治十一年三月、金谷・長谷・小沼・真行・名の五か村が合併して、金谷郷が誕生し、その金谷郷という名は、現在まで字名として残っている。ところが、それ以前にすでにこの旧五か村の結びつきは強く、五か村の村高、耕宅地反別などを記した文化十年(一八一三)「金谷郷八給銘細帳」(金谷区有文書)にも、この五か村が金谷郷二〇〇〇石として一つにまとめて把握されている。また、「元禄郷帳」、「天保郷帳」のどちらにも、村名をあらわすとき、金谷村には「本金谷村」と記帳し、他の四か村については、肩書に小文字で「金谷」とわざわざ注記されていることからも、その結合の強さが窺える。そこで、この「銘細帳」を頼りに、文化十年の支配状況ならびに家数・人数の内訳を示しておこう。
まず金谷村は、村高五〇〇石、家数四二戸、人数一八七人のうち、山口房之助一五〇石七斗五升七合三勺・一四戸・六九人、橘宗仙院一六九石五斗九升七合七勺・一三戸・五五人、遠山織部一七九石六斗四升五合・一五戸・六三人となり、三人の旗本が大体同じ程度の知行高を分割して支配した。
次に長谷村は、村高四〇〇石で、旗本土屋山城守が一給支配し、家数二九戸、人数一四一人を擁する村であった。小沼村は、やはり五〇〇石を旗本河野仙太郎が一給支配し、家数は五〇戸、人数一九六人の村である。さらに真行村は、村高四〇二石のうち、曲淵叔五郎が二〇九石六斗九升一合九勺・二〇戸・八五人、大沢甚之丞が一九三石六升六合一勺・一五戸・六五人と、二人の旗本が分給支配する。最後に名村は、曲淵叔五郎が一九一石六斗四升を一人で知行し、家数は一五戸、人数は六〇人であった。
金谷村を分割支配する山口氏は、山口駿河守直友の二男直治が分家した家で、直治の長子直矩(なおのり)は別家し、二男の直重が家督を継ぎ、上総国山辺・武射、近江国蒲生、武蔵国多摩四郡で二〇〇〇石を知行した。橘氏は、代々奥医として活躍し、とくに御匙役を勤め、知行高七〇〇石のほか月俸一〇口を与えられた。三代元周(もとちか)は、自論の脚気説を唱え、十一代将軍家斉の子竹千代と敦之助生誕のときには医師として尽力した褒美に寛政十年に養老扶持米二〇〇俵を貰っている。遠山氏は、遠山勘右衛門方景の三男景重が分家した家筋で、二代景光のとき、元禄十年に今までの蔵米を改められて、上総国山辺・埴生二郡において九〇〇石の知行地を与えられた。
長谷村の土屋氏は、初代之直が寛永九年に新恩五〇〇石をうけたとき、それまでの蔵米を改められて、相模国大住・愛甲、上総国長柄三郡で一〇〇〇石を知行したのを皮切りに、その後蔵米を加増され、二代朝直のとき、元禄十年にその蔵米を改められて上野国吾妻郡で二〇〇〇石を宛行われ、全部で三〇〇〇石を知行する旗本となった。同十三年に吾妻郡の知行地を分割して上総国山辺郡に移され、そのとき長谷村も同人の知行地に組み入れられた。
小沼村の河野氏も、寛永十年に蔵米を改められて上総国山辺郡で五〇〇石を知行した。小沼村での同氏の知行高は五〇〇石であるから、同氏の全知行高がすべて小沼村の村高ということになる。
真行村の大沢氏は、初代基雄(もとかつ)が天正十八年に秀忠に仕え、関ケ原の役後、大坂両陣にも従軍して加増をうけ、二代基洪(もとひろ)のときに七〇〇石を知行するようになった。三代基房が万治元年(一六五八)に遺領を襲封したとき、二〇〇石を弟基則に分与し、五〇〇石だけを以後も知行した。四代基政の元禄十一年に、それまでの知行地を武蔵国埼玉郡から上総国山辺郡に移され、そのとき真行村を分給支配することになった。
名村の曲淵氏については、すでに大竹村のところで述べたので、ここでは省略する。
以上の「元禄地方直し」によって金谷村をはじめ五か村を支配した旗本は、概ね幕末までその知行が存続する。逆に寛文期まで遡ると、同じ家系の旗本は、小沼村の河野氏だけで、他はいずれも知行替えが行われている。寛文八年では、金谷村は大久保七兵衛、長谷村は小宮伊右衛門、真行村は長田与右衛門、名村は森助右衛門といった旗本がそれぞれ一給支配していた。