家康の関東入国後、大網村を支配したのは、本佐倉を本拠として一万石の所領を与えられた三浦監物重成である。三浦氏については、実子重勝が寛永八年(一六三一)八月に世継ぎのないまま死去したことにより、無嗣子絶家となったため、その後の支配の実態に関しては、必ずしも明確ではない。
関東領国支配において相給村落が圧倒的に多いことは、町域の村だけではなく、関東一円で広くみられる現象である。ところで、町域には一一給というその代表格ともいえる村が存在した。大網村がその村で、寛政五年段階では、新田分の代官領も一給とみなすと、一二給にも及ぶ分割支配形態をとっていた。
寛政五年「拾壱給反別高明細帳」(大網 板倉功尚家文書)によって、同村の相給状況を示すと以下のようになる。内方鉄五郎代官領一〇七石九斗五升二合・無民家、清水領知一七七石六斗四升三合・本百姓三一戸・一二六人、大名米津(よねきつ)播磨守領分一〇三四石五升六合四勺・本百姓一七五戸・借地百姓二七戸・一〇一六人、あとはすべて旗本の知行地で、大岡伊織三八二石九斗七升六合五勺・本百姓七〇戸・借地百姓一五戸・三五八人、内藤弥左衛門二一六石九斗三升六合・本百姓五五戸・借地百姓八戸・二二四人、大導寺内蔵之助二〇〇石・本百姓三三戸・借地百姓一戸・一六八人、梶川長重郎一八〇石・本百姓二七戸・一三一人、戸塚金重郎一六八石五斗・本百姓二〇戸・借地百姓五戸・九五人、遠山織部一〇〇石・本百姓七戸・借地百姓四戸・四三人、石丸孫之丞五五石二斗二升二合・本百姓八戸・借地百姓二戸・五六人、荻野小左衛門四五石・無民家、曲淵叔五郎四〇石・無民家となる。そのほか、蓮照寺朱印地一〇石・門前家数一〇戸・人数四七人で米津播磨守取次、同じく本国寺朱印地一〇石・門前家数一〇戸・人数四七人で大岡伊織取次となっている。
米津氏は、米津政信の四男田政が分家して興した家で、慶長九年に町奉行となったときには、五〇〇〇石を所領していたに過ぎなかった。ところが、二代田盛の代になると、寛文六年(一六六六)に大坂の定番となり、摂津・河内両国で一万石を加封され、一万五〇〇〇石を領する大名となった。三代政武は、貞享元年に遺領を継いだとき、三〇〇〇石を弟田賢に分与し、残り一万二〇〇〇石を所領した。のち所領を上総国山辺・武射郡など四か国一一郡に移され、居所を埼玉郡久喜に定めた。その後、移封、分与を繰り返し、明和四年(一七六七)に上総・下総・武蔵・常陸四か国において一万一〇〇〇石を襲封した七代通政の代に至って、寛政十年に武蔵国の所領六四〇〇石余を羽前国村山郡に移され、そのときから長瀞を居所とした。米津氏と大網村との支配関係はとりわけ密接で、大網村内での所領高が一〇〇〇石余もあることが、そのことをよく物語っている。明治二年二月に大網藩として大網村に移って陣屋を構えたのも、そのような理由からである。しかしながら、大網村での居住はわずか一年八か月で、幕末・維新期の動乱の渦中にあって、同三年十一月には常陸国竜ケ崎へ移っていった。
ところで、有名な農書の一つに『百姓伝記』があるが、その『百姓伝記』の著者の居住地、著作年代を限定するために、慶長十年の三河国矢作川の瀬替工事を担当した「米津出羽守殿御先祖米津清右衛門尉殿御奉行にて」とある文書を拠りどころに年代の割り出しが試みられている。この米津出羽守とは田盛のことであり、その先祖清右衛門尉とは田盛の祖父政信の兄常春の長子正勝を指し、米津氏の先祖がこの河川工事に関わっていたことは興味深い。
大岡氏は、三代清勝が文禄元年(一五九二)に五〇〇石の所領を宛行われてのち、徐々に加増をうけ、五代清重の天和二年(一六八二)には全部で三七〇〇石を知行する旗本となった。ところが、貞享四年にその清重が、役務に不行届があった理由で御勘定頭の職を奪われ、逼塞させられた。その蟄居は、元禄二年に赦免されたが、七〇〇石の知行高を削られた上、小普請に格下げされてしまった。
梶川氏は、二代忠助の代の文禄元年に武蔵国都築郡小机庄において二二〇石の所領を与えられた。また、三代忠久は元和四年に大番に列してのち、上総国山辺郡で新領地四〇〇石を与えられ、そのときに大網村の一部が同氏の知行地となった。そして、寛永十九年に、先代忠助の遺領二二〇石を継いだとき、自分の知行する四〇〇石のうち一八〇石を添えられて、都合四〇〇石を支配し、二二〇石は上知させられた。
今川氏家臣を出自とする戸塚氏は、慶長十四年に三代忠之が上総国山辺・武射・埴生・長柄、下総国千葉・匝瑳六郡で一五〇〇石を与えられた。知行の所在地をみて分かるように、両総との支配関係が強く、大網白里町域でも大網村のほか清名幸谷村・南飯塚村・北横川村・上貝塚村の五か村を分給支配している。同氏は、明暦元年(一六五五)に家督相続した六代忠勝の代に、三〇〇石を弟忠久に分かち、以後一二〇〇石を代々知行した。
石丸氏は、初代正次が慶長元年に家康に仕えてのち、一〇五〇石を上総国埴生、近江国野洲二郡で与えられ、続いて二代正直が寛永十年上総国山辺郡で二〇〇石を加増され、合計一二五〇石を知行した。三代政證(まさずみ)の寛文九年に二五〇石を弟正広に分け、また四代有俊が元禄十年に四〇〇石を弟有證に分与したので、最終的に六〇〇石だけを代々知行することになった。
荻野氏は、初代清則が家康に勤仕し、鳥見役を勤め、二代清長も父を継承して同役を勤めたが、同氏がいつ知行取りとなったかは明らかではない。ただ、三代清貞が寛文三年に遺領を継いだとき、その知行地一九〇石が山辺郡などに所在していたことから、かなり以前から山辺郡に知行地があったものと思われる。
内藤・大導寺・遠山・曲淵の各旗本については、既出の村々で述べた通りである。
以上、寛政五年に大網村を一二給分割支配していた各領主について概観したが、それ以後は清水領知が消えるのみで、そのまま幕末まで続く。また、内藤・梶川・戸塚・荻野の各氏は、寛文八年にはすでに大網村を分給支配しており、川井氏のみが途中で知行替えとなっている。その川井氏は、二代政信が寛永十五年に上総国山辺郡で知行高二一〇石余、蔵米一〇〇俵を与えられ、同十八年に御書院番に列した。しかし、五代正綏(まさよし)のとき、享保十九年に二一〇石の知行高は蔵米に改められ、地方知行とは無縁となった。
荻福田村は、元禄・天保の両『郷帳』に大網村枝郷と注記が付されているように、大網村内の原野を開墾して生まれた新田で、村高はわずかに七石余という小村である。元禄期にはすでに新田村として成立し、大名米津氏の所領するところとなり、同氏の支配は明治初年まで続いた。
最後に星谷村は、荻福田村と同様大網村地内の星谷野という原野を、享保年中に大岡越前守勘定役長坂孫七郎が代官見立新田として開拓した新田村である。同二十年に検地をうけて高入れされ、その当初は大網村新田と称して、代官上坂安左衛門が支配した。その後、文政十一年(一八二八)に旗本森川伊豆守の知行地となり、天保元年(一八三〇)には親村である大網村から独立して一村となり、星谷村と称された。