戦国期、小西原氏の居城所在地として戦乱の渦中に巻き込まれた小西村は、近世に入っても、同村に陣屋をおいた代官関口作左衛門父子三人が幕府から切腹を命じられ、いまも三人の墓が正法寺(小西)に建てられているなど、歴史の表舞台に幾度となく登場する。
寛文八年の領主は、その代官関口作左衛門と大名板倉石見守である。板倉氏は、慶長六年に初代の京都所司代を勤めた板倉勝重の三男重昌が分家して興した家で、重昌は、同十三年に蔵米一〇〇〇俵をうけ、その蔵米が翌十四年に知行一〇〇〇石に改められたのを皮切りに、以後段々と加封され、元和二年には、上総国山辺・埴生、下総国葛飾三郡で三〇〇〇石の加恩をうけた。このとき小西村は、板倉氏の所領になったものと推察される。それから、寛永元年に父勝重の遺領のうち、六六一〇石余を分与され、合計一万一八五〇石余の大名として取り立てられた。二代重矩(しげのり)は、寛文十一年に五万石を領し、下野国烏山の城主となった。寛文八年の板倉石見守というのは、三代重種を指し、天和元年には、烏山城から武蔵国岩槻城へ転封となり、その際一万石を加えられて六万石を所領するまでになった。しかし、その年西城の老職に勤仕していたとき、何らかの理由で職を追われ、逼塞を命じられるとともに、一万石の減封処分をうけ、信濃国埴科郡坂木に蟄居した。四代重寛のとき、二万石を弟重宣に分かち、残り三万石を重寛が所領した。そして、元禄十五年に福島城へ転封となり、それ以降は、福島城主として代々三万石を所領することになる。板倉氏が小西村の支配をいつ離れたかは不明で、寛政五年時点では、大網村などを知行する旗本大岡氏が一給支配している。