養安寺村

300 ~ 301 / 1367ページ
 古くは養安寺村内にあった雄蛇池用地の一部が、幕府代官島田伊伯の手で開発されるとき、同池の地積を山口村の地積と替えられたことで重要な意味をもつ村である。
 寛文八年に同村を支配していたのは、代官八木次郎右衛門と旗本長尾庄右衛門の両氏である。そのうち長尾氏は、二代景継まで北条氏に仕え、やがて北条氏を去って家康の下へ走り、小田原攻めのときは、家康に随身して参戦した。入国後、上総国山辺郡で二〇〇石の所領を宛行われ、三代景信の代の寛永十年に二〇〇石の加増をうけ、合わせて四〇〇石を知行することになった。寛文六年に五代景澄(庄右衛門)が遺領を継ぎ、同八年の時点では、養安寺村五六〇石のうち、三六〇石を知行しており、ほぼ同氏の全知行高四〇〇石に匹敵する知行地が同村内にあったことになる。ところが、翌九年には、知行地は改められて四〇〇俵の蔵米取りになったため、同村との支配関係は消滅した。
 寛政五年に知行している阿部氏は、古くからの三河武士の系譜をひく旗本で、武勲も数多く伝えられている。知行地は、元和二年に、三代重真が上総国山辺・武射二郡で五〇〇石を与えられ、さらに寛永元年に甲斐国八代郡で五〇〇石を加えられた。しかし、このときにはまだ養安寺村との知行関係はなく、同村が阿部氏の支配をうけるようになったのは、四代重信が、寛永七年に山辺郡など二郡で五〇〇石を加増されたときであったと思われる。重信は、同八年に遺領一〇〇〇石を引き継いだとき、重信自身が知行していた五〇〇石は、弟重朝(八之丞)に与え、同十年には長柄郡で五〇〇石の加恩をうけ、全部で一五〇〇石を知行した。五代定政は、遺領一五〇〇石のうち、弟政信(伝八郎)に三〇〇石、重旧(杢之進)に二〇〇石を分割し、結局以後は一〇〇〇石を知行する旗本となった。なお、この間分与をうけた重朝と重旧というのは、砂田村・永田村を分給支配した阿部氏のことである。