山口村の寛文八年の支配状況をみると、野村彦太夫・八木次郎右衛門の二代官による幕府直轄領と、水野庄助・清水平左衛門・赤井七郎兵衛の三旗本による知行地から成っている。
水野氏は、二代勝安が寛永五年に蔵米五〇〇俵をうけ、同十年に二〇〇石の知行高が加増されたとき、先の蔵米が改められて、山辺郡で都合七〇〇石を知行することになった。したがって、山口村での知行高七〇〇石が、同氏の全知行高ということになり、その知行高と知行地は、以後幕末まで変わらなかった。
清水氏は、二代正親が天正十八年に蔵米二八〇俵余の新恩をうけ、三代恒豊の代の寛永十年に二〇〇石の知行高を加えられ、先の蔵米も改められてすべて四八〇石を山辺郡で知行した。水野氏と同様、当時清水氏の知行地は、すべて山口村にあった。その後、蔵米や知行の加増をうけ、四代豊頼のときには、五八〇石余を知行したが、五代豊長が弟山名豊常に二〇〇石を分与したため、清水氏は三八〇石余を支配することになった。
赤井氏は、三代善幸が寛永十年に山辺郡で三五〇石の所領を与えられ、前の二旗本と同じようにその知行地はすべて山口村にあった。四代正幸のとき、元禄四年に蔵米二〇〇俵が加えられ、同十年にその二〇〇俵が常陸国河内郡で知行地に改められ、全部で五五〇石を知行することになった。
寛政五年の時点では、清水平三郎と前田孫市郎の二旗本が新たに登場し、清水氏については、同村を分給支配した旗本清水与市の傍系と思われるが、はっきりしたことは分からない。また前田氏は、初代定次の天和元年に二二〇〇石を知行していたが、二代定相(さだすけ)、三代定忠のときにそれぞれ弟へ分与したため、同氏は分与した残り一〇〇〇石を代々知行した。
幕末にあらわれる山名鎗二郎については、その経歴を知ることができない。あるいは清水氏五代豊長の弟山名豊常につながる家系かも知れない。