南横川村

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 明治十九年の「地誌編輯」(柿餅 小川公延家文書)によると、同村の領主の変遷は、元和六年(一六二〇)には代官菅原左衛門助、慶安三年(一六五〇)には佐倉城主堀田加賀守、寛文二年(一六六二)には旗本大井長右衛門というように、近世初期にはかなり変動があった。年代を下って享保九年(一七二四)に新田の縄入れが行われ、その新開分が代官萩原源八郎の支配地となり、天保十四年(一八四三)にその代官領が水野壱岐守(のちの鶴牧藩)に所領替えされ、大井氏との二給支配が幕末まで続いた。
 武田氏の家臣であった大井氏は、八代の昌次が天正十年の武田氏滅亡とともに家康へ仕え、のち武蔵国秩父郡で三〇〇石を知行した。南横川村が同氏の知行地となったのは、十代正忠が寛文二年に甲斐国の知行地を山辺・長柄両郡に移されたときである。
 ところで、先の「地誌編輯」には、時代をはるか遡ること治暦四年(一〇六八)に相模国重春の孫佐久間某が当地にやってきて、ここを開拓して横川と称し、寛文元年に至って幕命により南横川村と改称したとある。またそのとき、以前は長柄郡に属していたのが、山辺郡に変わったと付記されている。