富田(とみた)村

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 寛文八年の所領状況をみると、榊原作右衛門二〇〇石、榊原八左衛門一三四石、佐倉城主松平和泉守一五八石という二旗本と一大名による相給支配となっている。
 『寛政重修諸家譜』には榊原作右衛門という名の旗本は見当らないが、「村誌」(柿餅 小川公延家文書)には、寛永十年から榊原飛驒守という旗本の知行となっていることから、この飛驒守から寛政五年の左衛門、幕末期の小源太に連なる榊原氏であることは間違いない。その飛驒守(初代職直(もとなお))は、それまで花房姓を名乗り、文禄三年に父職之が豊臣秀吉の勘気をうけて佐竹義宣に預けられることになり、その領地に赴くために江戸を過ぎようとしたとき、家康の恩命によって職直は池上本門寺付近に留められ、慶長元年榊原康政の取り成しによってはじめて家康に拝謁し、命により家号を榊原に改めたといわれている。寛永二年には知行高一八〇〇石の朱印状が下付され、同十年にも山辺郡で七〇〇石を加増されて二五〇〇石を知行するようになる。翌十一年には長崎の町奉行となり、同十四年に蜂起した島原の乱の鎮圧にも当たった。二代職信は、慶安元年に遺領を継ぎ、五〇〇石を弟八左衛門(職員(もとかず))に分与した。その弟八左衛門が、富田村を分割支配したもう一方の榊原姓の八左衛門である。
 なお、富田村は、行政単位の村としては近世を通じてずっと一村であったが、元禄五年に南・北富田村に分かれ、明治二年には再び南北の区別なく富田村と呼称された。