往古は、泪広野と称され、天正十九年七月に検地が実施されてのち、清名幸谷村と改称された。近世初頭の所領状況については、不分明の箇所もあり、その実態が明らかになってくるのは、佐倉城主堀田加賀守が分割支配するようになる寛永二十年からである。その堀田氏をはじめ、寛文元年松平氏、延宝六年大久保氏、貞享二年戸田氏と歴代の佐倉城主が清名幸谷村高四二〇石のうち一五八石を所領し、そのほか知行開始年代は不明ながら、旗本戸塚氏が一六三石、同小幡氏が一〇〇石を分給支給した。その後元禄十一年に佐倉城主戸田氏の領分は上知され、新たに旗本の杉田氏と中川氏が等分に七九石八斗ずつを知行することになった。他方、小幡氏の知行地は、やはり年代は確定できないが、旗本遠山氏に知行替えされ、のち村添新田部分が代官領となって五給支配となり、その状態に変動がないまま明治維新を迎える。
慶応二年時点での五給の内訳は、小川達太郎代官領三一石五斗八升五合・私領持添無民家、戸塚泰之助一六三石五斗・四二戸・二八一人、中川飛驒守七九石八斗・七戸・五八人、遠山左衛門一〇二石・一四戸・七八人、杉田弥一郎七九石八斗・一一戸・七〇人で、村高合計四五六石六斗八升五合、家数七四戸、人数四八二人となる(「村高家数書上帳」中村昭家文書)。
戸塚・遠山両氏については既述したので省略し、初めてあらわれた杉田氏と中川氏に関して簡単に触れよう。まず杉田氏は、豊臣秀次に仕え、のち家康に従った忠次の長男直昌が別家して興した家で、寛永十五年に勘定方となって蔵米一五〇俵を与えられ、のち勘定方組頭に昇進して蔵米二〇〇俵に改められた。この直昌は、万治三年から但馬国において、また寛文八年からは美濃国でいずれも代官を勤め、その褒賞として蔵米三〇〇俵が加えられた。二代忠察(ただあきら)が元禄十年に蔵米を改められて、上総国山辺・長柄・武射・埴生、下総国香取五郡で五〇〇石を知行することになり、そのとき清名幸谷村の一部が杉田氏の知行地(杉田・中川両氏ともに実質的な分郷は翌十一年)となった。
中川氏は、中川忠重の三男忠幸(ただよし)を初代とし、その忠幸は、元和三年に小姓組番士となって蔵米三〇〇俵をうけ、さらに寛永十一年に蔵米二〇〇俵を加えられた。承応三年(一六五四)に摂津国島下郡で知行高五〇〇石の加増があり、二代忠雄のとき、元禄十年に蔵米の五〇〇俵を改められて山辺郡など六郡で五〇〇石を知行し、合わせて一〇〇〇石を知行するようになる。やはりその年に清名幸谷村の一部が中川氏の知行地に組み込まれることになった。
寛文八年時点に同村を分給支配した旗本小幡太郎左衛門は、北条氏の旧臣である初代直俊が小田原落城とともに家康に仕え、天正十八年に山辺郡など三郡で二八〇石を与えられて旗本となった家である。三代為貞の代の寛永十年に二〇〇石を加えられ、四代正重が明暦二年(一六五六)に遺領を継いだとき、弟正勝に一八〇石を分け与え、残り三〇〇石を知行した。しかし、元禄十年にその正重の不行跡から知行地は全部没収され、五代正光が元禄五年(一六九二)に蔵米二〇〇俵をうけたが、以後はその二〇〇俵の蔵米のみで知行地は与えられなかった。