北飯塚村

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 北飯塚村も寛文八年の史料には村名、村高とも一切記載がなく、しかも地方(じかた)文書もほとんど残存していないという史料的制約から、表1では「元禄郷帳」の村高五三石余をそのまま用いて表示した。寛政五年段階には、持添新田分が内方鉄五郎代官領となり、村高も七三石余とおよそ二〇石増加している。幕末期には水野肥前守領分(鶴牧藩)が代官領にとって代わっている。