寛文八年には、村高三四石を旗本宮城主殿が一給支配していた。宮城氏は、古くは鎌倉将軍に仕えた家系で、姓も以前は鯰江と称していたが、元和八年(一六二二)に宮城と改姓した。それより先、六代和甫(まさよし)が、慶長十六年に蔵米四〇〇俵を与えられ、やがて知行取りに改められたのち、寛永十九年に大目付に昇格し、四〇〇〇石を知行するまでになった。そして、八代和澄が寛文五年に遺領を継承したとき、弟和直(まさなお)に山辺・市原両郡で五〇〇石を分け与えた。その弟和直の家系が柿餅村の寛政五年時の宮城源太郎であり、したがって、同村では途中から本家より分家へ知行替えが行なわれたことになる。
同村の地形は、全体的に平坦で、田畑・山林が交錯し、「砂土混交、稍悪、稲・麦、最モ甘薯ニ適ス」(「村誌」小川公延家文書)ような地質の村である。用水の面では、西北の北横川村境から流入し、富田村字又三郎野を通り、柿餅村へ入る長さ三七五間、深さ五尺、幅二間の河渠が設けられ、これを利用して田地に水を引いていた。