寛文五年では、高木主水と服部市郎右衛門の二旗本による分割支配が行われていた。そのうち、三河武士を先祖にもつ高木氏は、三代の正次が一万石を所領し、四代正成も父正次の遺領を襲封する前に、慶長十九年に山辺郡で一〇〇〇石を与えられ、続いて元和元年の大坂夏の陣の戦功により同様上総国内で一〇〇〇石を加増された。このいずれかのときに木崎村が同氏の所領に組み入れられたものと予想される。
他方、服部氏は、保長の長男保俊が別家して興した家である。三代元正の寛永二年に三〇〇石を宛行われ、のち大番に列し、それより先二〇〇石の加増をうけ、同十年にさらに五〇〇石を加えられ、それまでの知行地を改められて上総国山辺・長柄、下総国海上三郡で合計一〇〇〇石を知行した。そのとき、木崎村のうち六三石余が同氏の知行地となり、その支配は幕末まで続いた。
寛政五年時には、持添新田が内方鉄五郎代官領となっており、与力給地も含まれて服部氏との三給支配となる。