吉田村は、近世初期には南北に分かれておらず、一村として把えられていた。そのため寛文八年の時期においても、吉田村一村として五八六石一斗六升の村高を、酒井兵左衛門一九〇石四斗三升、阿部四郎三郎八五石七斗三升、桜井清右衛門二四〇石、戸塚兵九郎七〇石というように、四人の旗本が分割支配していた。分村した年代は確定しえないが、元禄期までには二分され、北吉田村は山辺郡に、南吉田村は長柄郡にそれぞれ編入された。右の四旗本のうち、のちの北吉田村に帰属する地域を知行した旗本は、北吉田村の村高や以後の支配状況から判断して、酒井氏と阿部氏であったと考えられる。
酒井氏は、旧東金城主五代酒井政辰(まさとき)の三男正次の家筋で、正次は家康に勤仕し、二代正吉(まさよし)が寛永十一年に上総国で二〇〇石の知行地を与えられた。このとき吉田村(南北吉田村)五八七石余のうち一九〇石余が、同氏の知行地になったものと思われる。しかし、同氏は、四代正恒の天和二年(一六八二)に知行地を収めて、蔵米取りに切り替えられたため、同村との支配関係はなくなった。
酒井氏知行分は、寛政五年の時点では旗本仙石氏が知行し、阿部氏の支配は幕末までそのまま続く。安政二年「明細書上帳」(北吉田 十枝澄子家文書)から両氏の知行内容を比較すると、仙石次兵衛一九七石六斗七升八合・一六戸・一〇四人・馬一五疋、阿部四郎兵衛八六石四斗二升九合・八戸・六二人・馬三疋となる。
仙石氏は、初代久尚(ひさなお)が、享保十六年までに近江国浅井郡や上総国武射・市原、下総国印旛郡などで二〇〇〇石を知行し、同年印旛郡の知行地を山辺・長柄郡に移され、北吉田村もこのときに同氏の知行地となった。